花の業と欲望の色
業というのは仏教由来、カルマともいい、元々は、単なる行為という意味で、善悪の意味はそこにはなかった。
いつの間にか、業が深いなどの言葉が生まれ、今では、悪い意味で使われるようになったという。
僕は、だから業が深い。
欲望というのは、ほしがる心。不足を感じて、これを満たそうと望む心、という。
渇えているから、満たそうとする心の動きなのだろう。
欲望は、浅い深いというより、弱い強いということが多いだろう。
浅い深いは、欲望ではなく、欲に対して、欲深い、欲がないなどという。
僕は欲深く、欲望が強い。
色とは、可視光によるものだから、目に見えるもの、視覚として捉えられる。
だから、色とは、実体のあるものに対して使われるのだろう。
実体のないものは、可視光に反応しない。目に見えないから、無色、そして透明だろう。
とはいえ、実体のないものについても、そのニュアンスを表現するために、比喩的に色をつけたりすることがある。
たとえば心。
蒼い心や黒い心、紫色を漂わせ、など。
そうすることで、解釈を生み、実体のないものであっても、その様を伝えようとすることがあるだろう。
欲望にも色がある。
僕の欲望は黝い。青く黒い。ただ黒いのではなく、青みを帯びている。
花守と花とは一心同体のような気がする。
そうでなければ花を守れない。
だから、業の深い花がいい。
だから、欲深い花がいい。
だから、欲望の色が黝い花がいい。
これは僕のわがまま。
美しく黝い心の花がいい。
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