雨の日の水溜りで遊んだのはいつの頃だろう【23】
明代の存在を否定されて、僕は途方に暮れていた。
僕と明代の記憶は何だったのだろう。
明代との他愛ない子供の頃の遊びの記憶は、何なのだろう。
僕は実家の前にいて、玄関を見た。
通り過ぎて少し先まで歩き、振り返った。
父と母がいるだろう。
姉はどこかにいるだろう。
何年どころか、何十年も会っていないように思う。
会うことなく、このまま東京に戻ることを思った。
こんな時でも空腹感を覚えた。
僕はぶらぶらと歩いて、手頃な食事処を見つけて中に入った。
テレビがつけてあって、何かを映していた。
和洋中、メニューがひとつひとつ短冊に書かれて壁に貼ってあった。
奥から店員が顔を出して、いらっしゃいと声をかけてきた。
僕は入り口の近くのテーブルに座った。
かっぽう着みたいなものを着て、三角頭巾の店員が、ビール会社のマークのついたコップに水を注いで持ってきて、トン、とテーブルに置いた。
「いらっしゃい。何にしますか?」
こんな時は、かつ丼とビールと相場が決まっている。
僕は注文した。
はあい、と言って店員が奥に戻っていった。
テレビの近くのテーブルに、中年男性が座って、ビールを飲みながらテレビを見ていた。
そういえば。
明代の記憶は、子供の頃遊んだ記憶しかない。
僕は思った。今更どうして、そんなことを思い出すのだろう。
僕は漫然と店内を見渡した。
明るい陽射しが注いでいる店内。
清潔さと古ぼけた感じが相まっていた。
テレビは競馬の実況中継を流していた。
奥から店員が、瓶ビールとコップを持って来て、テーブルに置いた。
僕はコップにビールを注いで一口で飲み干した。
停滞している。
動きと記憶。
このお店の時間が、ゆっくりと流れている感覚があった。
カツ丼が出てくるのは、明日になりそうな揺蕩う感覚。
なんとなくおかしみがあった。
葉子の気に入りそうな雰囲気だと思った。
ふと、葉子と明代は似ていると思った。
今の今まで、そんなことは露ほども思ったことはなかったのに、なぜだろう。
僕は目を閉じていたらしい。
お待たせしましたあ、店員はそう言って、僕の目の前にカツ丼が置いて奥に消えた。
味噌汁とお新香もついていた。
僕はカツ丼の蓋を開けた。
お腹を空かせて入った町の定食屋でカツ丼を注文したら、期待通りのカツ丼が出てくるのは、ちょっとした幸福なんだろう。
僕は味噌汁を一口飲んで、カツ丼を頬張った。
こんな時でも美味しいと思うのは、このお店がちゃんと仕事をしているからだろうと思った。
僕は早く東京に戻ろうと思った。
長居は無用だった。
テレビを観ていた男が、舌打ちして、ああ、と言っていた。
その気持ちがなんとなく伝わってきた。
僕の場合は舌打ちのない落胆だった。
電車の時刻まで、まだ時間があった。
もう一度だけ、明代の家に行こうと思った。
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