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鍵盤楽器音楽の歴史(39)フローベルガーの旅路

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1649年から1653年にかけてフローベルガーはヨーロッパ各地をめぐる大旅行に出ます。しかし三十年戦争終結直後のこと、治安は最悪であり物騒な旅路だったことでしょう。

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Dresden (Matthäus Merian, 1650).

ウィーンを発ったフローベルガーは1649年末から1650年初めごろドレスデンに辿り着き、当地を治めるザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の宮廷でマティアス・ヴェックマン (1616-1674) と弾き比べを行っています。これをきっかけに二人は長い友情で結ばれることになります。

ドレスデンを後にしたフローベルガーは西へ向かい、コローニュとデュッセルドルフを経てネーデルラントに入ります。

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『ライン川を渡る船で重大な危機に遭遇して作曲したアルマンド』
Allemande faite en passant le Rhin dans une barque en grand
peril, la quel le se joüe lentement â la discretion (The Manuscript SA 4450 from the Berlin Sing-Akademie zu Berlin).

これはフローベルガーがライン川を渡ったときの顛末を描写したという曲で、組曲27番 ホ短調 FbWV 627 の第1曲にあたります。紙面の半分を占める文章には楽譜上の番号付けされた各フレーズがどのような出来事を表現しているかが事細かに書かれています。

このような曲があったということはヨハン・マッテゾンの『栄誉の基礎』Grundlage einer Ehren-Pforte (1740) に報告されていて古くから知られていたのですが、2004年にこの詳細な説明付きの SA 4450 写本が発見されるまで実際の作品は不明のままでした。ただし曲自体は既知のもので、他の写本にある “Allem[and] nme[nommée] Waßerfall” という題で知られていました。

ちなみに discretion(裁量を以て)という指示はフローベルガーの作品にしばしば見られるもので、フレスコバルディの「序文」にあったように、拍節に囚われない情感豊かな演奏を求めるものと考えられます。

フローベルガーは1650年の3月にはブリュッセルに到着しています。

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Brüssel (Matthäus Merian, 1654).

ブリュッセルでは宮廷におけるフローベルガーの演奏に対して報酬が支払われた記録が残っており、また旅費も提供されています。アルベルト大公 (1559-1621) は亡くなって久しく、ブリュッセルはレオポルト・ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ (1614-1662) の治めるところとなっていましたが、彼もまた芸術のパトロンとして有名な人物です。

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ダフィット・テニールス『ブリュッセルの画廊における大公レオポルト・ヴィルヘルム』(1651)

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『盗まれた物への哀歌』
Lamentation sur ce que j’ay esté volé, et se joüe fort lentement, à la discretion sans obserueur aulcune mesure (SA 4450).

これはフローベルガーの組曲第14番 ト短調 FbWV 614 の第1曲で、他の写本 (WMin 743) で伝えられる逸話によれば、ネーデルラントで追い剥ぎにあった哀しみを表現した曲です。

Cum D. Froberger Bruxellis Lovanium iter faciens a militibus Lotharingis, tunc grassantibus verberibus male tractatus fuisset, imo quamvis ceteroquin Patentes caesareas respexissent spoliatus saucius tandem dimissus: hanc Lamentationem pro animi afflicti solatio composuit.

「フローベルガー氏がブリュッセルからルーヴェンへ旅をしている時、ロレーヌから来た兵士たちが、皇帝の通行証を確認したにもかかわらず、彼を鞭で殴打した。さらに兵士たちは彼の持ち物を強奪し、彼を傷ついたまま放置して去った。彼はこの屈辱を慰めるためにこの哀歌を作曲した。」

フローベルガーはかなり長い間ネーデルラント一帯を周っていたらしく、彼がパリに足跡を残すのは漸く1652年のことになります。

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Parys (Matthäus Merian, 1648).

ジャン・ロレの年代記 "La muze historique" には、1652年9月26日に行われた演奏会に "Un certain pifre d'Alemand"(とある太ったドイツ人) が参加したことが記されており、さらにこの人物は「皇帝とレオポルト大公のオルガニスト」であるとされているため、これはまず確実にフローベルガーのことだろうと考えられます。そしてフローベルガーはデブだったようです。

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ちなみに神聖ローマ帝国皇帝だのレオポルト大公だのというのはフランスにとってはまさしく仇敵であったわけで、フローベルガーのフランス入りに時間がかかったのはこの辺に原因があったのかもしれません。

パリでフローベルガーが親しくしていた人物に、リュート奏者の「ブランロシェ氏」ことシャルル・フルーリー (1605-1652) がいます。現存する彼の作品はただ1曲が知られるのみです。

彼はむしろその死によって知られていると言っていいでしょう、それはフローベルガーのパリ滞在時、1652年11月のことでした。

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『ブランロシェ氏の死に寄せる悲嘆とトンボー、パリにて作曲』
Affligée et Tombeou sur la mort de Monsieur Blanchrocher, faite à Paris, et se joüe bien lentement et à la discretion (SA 4450).

ハ短調で書かれたこのトンボー(追悼曲)は、暗い曲で冴えを見せるフローベルガーの作品の中でも取り分け暗澹たる曲調を示し、鍵盤音楽史上でも極めつきの陰鬱な作品です。

WMin 743 には死亡時の詳しい経緯が付されています。

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Monsieur Blancheroch insignis Cytharoedus Parisiensis D. Frobergeri optimus amicus, cum post convivium Dominae de S. Thomas, cum D. Froberger in horto regio deambulasset, domum rediret, et aliquid facturus scalas ascendisset; inde decidit, adeo graviter, ut ab uxore, filio, aliisque in lectum debuerit trahi. D. Froberger videns periculum, cucurrit pro Doctore: adsunt et chirurgy, qui sanguinem in pede laeso confluum mitterent facta incisione: adest Monsieur Marquis de Termes cui Monsieur Blancheroche proles suam commendavit; et paulo post ultimum spiritum coepit trahere, animam exhalare.

「パリの有名なリュート奏者ブランロシェ氏は、フローベルガー氏の最高の友人であった。ある日、サン・トマ夫人と晩餐をとった後、彼はフローベルガー氏と王宮の庭園を散歩した。そして帰宅して階段を登っている時、彼は転落し重傷を負ったため、妻、息子、その他の手によってベッドに運ばれた。フローベルガー氏は危機と見て医者を呼びに走り、外科医らは負傷した脚に瀉血を行った。そこにはマルキ・ド・テルム氏も居合わせ、ブランロシェ氏は息子を彼に託した。その後まもなく彼は息を引き取った。」

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"Requiefcas in pace"

曲の最後はガタガタとした二重トリルに続く下降音形で唐突に終わります。ブランロシェ氏が階段を転げ落ちるさまを描写したものでしょう。

ブランロシェ氏の死に際してはフローベルガーの他にもパリの音楽家達がトンボーを作曲しており、ドニ・ゴーティエ (1597 or 1602/3-1672) とフランソワ・デュフォー (c.1604-c.1672) のリュート曲、ルイ・クープラン (c.1626-1661) のクラヴサン曲が残されています。

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Louis Couperin: Tombeau de M. Blancrocher (Bauyn manuscript)

ルイ・クープランの「ブランロシェ氏のトンボー」はフローベルガーのものとは打って変わってヘ長調の優しく明るい雰囲気の曲です。しかしそこにもふと哀しみがよぎり、鐘の音を模した音形を繰り返して別れを告げます。

実のところトンボーで露骨に悲劇的な表現をするのは避けられる傾向がありました。フローベルガーのトンボーはフランスの規範から言えば奥ゆかしさにかけると言わざるを得ないかもしれません。

ルイ・クープランの「トンボー」はこのボーアン写本によってのみ伝えられていますが、見ての通りタイトルが d のようなもので上書きされて消されています。ボーアン写本ではしばしばこのようなものに遭遇しますが理由は不明です。少々不気味ですね。

ルイ・クープランとフローベルガーの交流を物語る資料はありませんが、シャンボニエール門下の期待の新人アーティストであったルイ・クープランにフローベルガーが注目しないはずもないだろうし、少なくともルイ・クープランはフローベルガーの演奏に影響を受けたものと考えられます。

ボーアン写本に収録されているルイ・クープランのプレリュードの一つは、もう一つのルイ・クープランのクラヴサン曲の主要資料であるパルヴィル写本では "Prélude à l'imitation de Mr. Froberger" (フローベルガー氏の模倣によるプレリュード) という題が付けられています。

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この冒頭部はフローベルガーのトッカータ第1番の冒頭の和音を分散和音として「リアライズ」したものと見ることができます。フローベルガーは自身のトッカータを実際にはルイ・クープランが記譜したように弾いていたのではないでしょうか。

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パリを発ったフローベルガーは、カレーからドーバー海峡を渡る船に乗ってロンドンへ向かいます。

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London (Matthäus Merian, 1638).

しかし今度は海賊に襲われます。

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『嘆き、ロンドンで憂鬱を晴らすために作曲』
Plaincte faite à Londres pour passer la Melancol ie la quel le se joüe lentement et à discretion (SA 4450).

「フローベルガー氏はパリからロンドンへ行こうと考え、通例通りカレーからドーバー海峡を渡ったものの、海上で強盗の被害に遭ったため、彼は無一文でイングランドに上陸して漁師の宿の世話になった挙げ句ロンドンに辿り着いた。社会に復帰して音楽を聴きたいと願った彼はオルガンのふいご吹きの職に就くことにした。しかしある時、憂鬱に囚われた彼はふいごを動かすことを忘れ、オルガニストによってドアから蹴り出されてしまった。これはそのような悲しい出来事を元に作曲された哀歌である。」

しかしフローベルガーは1652年12月に再びブリュッセルを訪れていますので、このロンドン行の災難は事実だとしても別の時期の旅のエピソードである可能性が考えられます。

ただしフローベルガーは1654年のキルヒャーへの手紙の中で、ロンドンで『普遍音楽』について尋ねられたと報告しているので、この頃にロンドンへ行っていることは事実でしょう。

1653年春、フローベルガーはハイデルベルクとニュルンベルクを通過し、皇帝によって帝国議会が召集されたレーゲンスブルクに向かいます。 1653年4月には再びウィーンの宮廷礼拝堂から給与が支払われており、それから1657年にフェルディナント3世が崩御するまでそこで勤務を続けました。

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