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鍵盤楽器音楽の歴史(47)その後のプレリュード・ノン・ムジュレ

曖昧なものは曖昧なままに、というプレリュード・ノン・ムジュレの記譜法は、実にフランス特有のものであり、フランスの美学を体現する芸術といえます。とはいえルイ・クープランの用いた「全音符のみ」という思い切りの良すぎる記譜法は流石にあまり普及しませんでした。

Nicolas Lebègue

最初に出版されたクラヴサンのためのプレリュード・ノン・ムジュレは、ニコラ・ルベーグ (c1631-1702) の『Les pièces de clavessin』(1677) のものです。この曲集の序文にはプレリュードの記譜についての彼のコメントがあります。

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J’ay taché de mettre les préludes auec toute la facilité possible tant pour la Conformité que pour le toucher du Clauecin, dont la maniere est de Separer et de rebattre plus-tost les accords que de les tenir comme a l’Orgue si quelque chose s’y rencontre vn peu difficile et obscure Ie prie Messrs les intelligents de vouloir suppleer aux deffaux en considerant la grande difficulté de render cette metode de Preluder assé intelligible a vn chacun.

私はプレリュードをなるべく簡単にクラヴサンの奏法と合致するよう提示することを試みた。それはオルガンのように和音を押さえ続けるよりも、和音を分離して素早く打ち直すものである。もし少々分かり難いところや不明瞭な点を見つけられたならば、その欠陥について諸賢の補完を請いたい、プレリュードの方法を誰にでもわかるように伝えることの大いなる困難を考慮されたし。

彼は組曲の始まりにプレリュードを置き、これを普通に様々な音価の音符を用いて記譜しています。ただし小節線は無く、代わりに斜めの線を使って和声の交替を示しています。

付点音符や繋留を駆使したこの記譜法は、些か煩雑であることが否めません。

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Nicolas Lebègue: Les pièces de clavessin (1677)

彼のプレリュードは名手の即興を伝えるような雅趣に富む佳品です。ただし規模はささやかなもので、正しく前奏曲たるに相応しい作品に留まっています。

実際ルイ・クープランの大規模なプレリュードのような作品は、その後フランスで見られることはなく、ルイ・クープランほど多くのプレリュードを残す作曲家も現れませんでした。

Élisabeth Jacquet de La Guerre

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才媛、エリザベト・ジャケ・ド・ラゲール (1665-1729) が22歳で出版した『Pièces de clavessin』(1687) で採用したプレリュードの記譜法も音符を使い分けていますが、音価を正確に記述するというよりは、機能によって音符を区別しており、和音的要素を全音符で記し、旋律的要素を黒い音符で記すことで視認性を確保しています。

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Elisabeth Jacquet de La Guerre: Pièces de clavessin (1687)

この記譜法が彼女の発案によるものなのかはわかりませんが、この折衷的な方式が以後のプレリュード・ノン・ムジュレの一般的な記譜法となります。

彼女のプレリュードはルベーグのものよりは規模が大きく、中間にフーガではないものの拍節的なセクションを持ち、そこだけは小節線のある通常の記譜法が用いられています。

これはやはりルイ・クープランの影響によるものでしょうか。当時ルイ・クープランの作品がどの様に受容されていたのかについて、今の我々はほとんど何も知りません。

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彼女のクラヴサン曲は17世紀的な格調高い作風ですが、時折聴かれるギャラントな趣にはロココを予感させるものがあります。

組曲第4番の第1曲は「Tocade」と題されています。これはフランスでは非常に稀なトッカータと題された曲の例ですが、内容的には別段他のプレリュードと違いはありません。あるいは拍節的なセクションが長めというあたりがイタリア風ということなのかもしれません。

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後に神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の皇后となるアマーリエ公女 Wilhelmine Amalie von Braunschweig-Lüneburg (1673-1742) の楽譜帳には、ラゲールにとてもよく似た記譜法による短いプレリュードが収録されています。公女のパリ在住時の音楽教師はエリザベトの姉であった可能性があり、彼女が若き公女の練習のために書き下ろしたものなのかもしれません。

これは基礎的なコード進行 (C-F-G-C) の分散和音に若干の走句が挿入されているだけというごく簡単なものですが、凝ったところがないだけにプレリュード・ノン・ムジュレの本質がよくわかります。

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Livre de son altesse serenissime Madame la princesse Amalie de Brunsvic et Lunebourg (after 1687)

Jean-Henri D'Anglebert

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ルイ・クープランの没後、シャンボニエールに替わって王宮常任クラヴサン奏者となったジャン=アンリ・ダングルベール (1629-1691) は、正にルイ14世時代を代表するクラヴサン音楽家です。なお彼はこの肖像画に見られるように斜視だったようです。

彼のプレリュードの自筆譜はルイ・クープランと同じく全音符だけで記譜されていますが、同じ曲が1689年の出版譜ではラゲールと同様の記譜法で提供されています。両者を比較することはルイ・クープランのプレリュードを理解する鍵にもなるでしょう。

偉大なる世紀に相応しい荘重にして豪華絢爛たる彼のプレリュードは、フランス・クラヴサン音楽の一つの理想形といえます。

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Pièces de clavecin et airs de différents auteurs, f. 52v 

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Jean-Henri D'Anglebert: Pièces de clavecin (1689)

パルヴィル写本には全音符だけの記譜法による作者不明のプレリュードが3曲収録されていますが、これもおそらくダングルベールの作品だと考えられています。

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Hung, Melody. (2011). Three Anonymous French Seventeenth-Century Preludes from the 'Parville Manuscript'. UC Berkeley: Library.

フランスの18世紀の最初の10年にはクラヴサン曲集の出版が集中しています。これらはどれもルイ14世の趣味に適った古典的な組曲を収録するもので、多様性に欠けるきらいがありますが、上質の典雅な作品には事欠きません。

Louis Marchand

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J.S.バッハとの弾き比べで敵前逃亡したことばかり有名なルイ・マルシャン (1669-1732) ですが、残された作品を見るに彼の天才は疑いありません。ただ彼は気まぐれな性格で、作品を仕上げることが苦手だったらしく、生前に出版された彼の作品は2巻のクラヴサン曲集だけです。

1702年に出版された1つ目のクラヴサン曲集の内容は、ニ短調の組曲が1つだけと寂しいものの、その出来はこれだけでも彼を18世紀前半のフランスの代表的鍵盤音楽家とするに十分なものです。

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Louis Marchand (1702)

この組曲は壮大なプレリュードから始まりますが、これはノン・ムジュレではなく通常の記譜法によるものです。とはいえ音楽内容的には厳密な拍節に従うものには思われません。冒頭部分はスティル・ブリゼ的な分散和音が非常に煩雑に記譜されており、大変見づらい譜面になっています。

1703年出版の第2巻もやはりト短調の組曲が1つだけの薄い本です。こちらのプレリュードはノン・ムジュレですが、些か凡庸な作品で、第1巻のプレリュードに比べると見劣りします。

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Louis Marchand (1703)

Louis-Nicolas Clérambault

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ルイ=ニコラ・クレランボー (1676-1749) は、むしろオルガン曲で有名ですが、1704年出版のクラヴサン曲集も手堅い出来で、彼の旋律の才能が遺憾なく発揮されています。

彼のプレリュードの記譜は音の入りを示す縦の点線の使用が目立ちます。

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Louis-Nicolas Clérambault (1704)

Gaspard Le Roux

ガスパール・ル・ルーについては、彼が1705年に出版したクラヴサン曲集以外には、わずかな公文書と新聞記事以外の情報は知られておらず、生没年すら不明です。

彼はその曲集の序文で、例によって自作の不正確なコピーの横行を嘆いており、それらの現存するものはありませんが、おそらく作曲年代は17世紀に遡るものと考えられます。ちなみに後にアムステルダムのエスティエンヌ・ロジェにより本格的な海賊版が出版され、それによってドイツ圏でもル・ルーの作品が知られるようになります。

彼のプレリュードは時代錯誤にもルイ・クープラン流の全音符のみの記譜法で書かれており、さらに奇妙なことに左手は数字付きで通奏低音の体裁をとっています、どうしろというんでしょうか。

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Gaspard Le Roux (1705)

この曲集は典型的な舞曲によるクラヴサン組曲が7つ収録されていますが、同時にそのトリオ・ソナタ編曲版が同じページに載っています。この編曲版の演奏について作曲者は3種類の方法を提示しています。

第1には通奏低音パートをクラヴサンで弾きながら、第1パートを自ら声に出して歌う (!) というもの、第2は合奏によりトリオ・ソナタとして演奏するもの、第3は第2パートと低音パートを別のクラヴサンのパートとして、2台のクラヴサンで演奏するというものです。

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つまり彼のプレリュードは通奏低音つきソロ・ソナタとして演奏が可能なようです(もちろん独りで歌っても構いませんが)。この方法は他のプレリュード・ノン・ムジュレにも応用可能でしょう。

ル・ルーのプレリュードは瀟洒な佳品ですが、いかにも短く、これからという所で終わってしまうので物足りなさを感じます。もっとも前奏曲というのはそれで正しいのでしょうが。

Jean-Philippe Rameau

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ジャン=フィリップ・ラモー (1683-1764) の最初のクラヴサン曲集もこの時期に出版されています。意外な事にフランソワ・クープランのクラヴサン曲集の出版よりも前のことです。

1706年に出版されたクラヴサン曲集の内容は、プレリュード・ノン・ムジュレに始まる古典的な組曲であり、「めんどり」だの「サイクロプス」だのといった標題作品で占められている後の彼のクラヴサン曲とはまるで異なる作風のものです(ただ1曲だけ Vénitienne という標題作品が含まれる)。

彼のプレリュードは「ノン・ムジュレ」しているのは前半だけで、後半は拍節的で無窮動な音楽となります。これはイタリア風というべきものでしょうか。

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Jean-Philippe Rameau (1706)

ラモーというビッグネームの作品故に、この曲はピアノでも演奏される機会の多いおそらく唯一のプレリュード・ノン・ムジュレとなっています。マルセル・メイエの1953年の録音は、私の知る限り最古のプレリュード・ノン・ムジュレの録音ですが、どうも彼女は全音符という見た目に騙されているのか、アルペジオの和音を異常に遅く弾いています。

1715年にルイ14世が崩御すると、それまで権威的に強制されていたルイ14世好みの荘重な音楽は廃れ、替わってロココ調のギャラントな作風が流行します。当然ながら古色蒼然たるプレリュード・ノン・ムジュレなどはもはや顧みられなくなります。

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La mort de Louis XIV (1715)

François Couperin

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ルイ・クープランの甥、フランソワ・クープラン (1668-1733) の『クラヴサン曲集 第1巻』(1713) にはプレリュードが含まれていませんが、その後出版された『クラヴサン奏法 L'art de toucher le clavecin』(1716) に8曲のプレリュードがまとめて収録されています。ただしこれらは通常の記譜法をとっており、プレリュード・ノン・ムジュレではありません。

これらのプレリュードに先立って著者から次の様な解説があります(以下は1717年の第2版からの翻訳)。

私はこれらの8つのプレリュードを、私の最初の曲集および出版されたばかりの2番めの曲集の作品の調で作曲した。クラヴサンを学ぶ生徒の殆どが、最初に習った短いプレリュードしか知らないことに気づいたためである。これらのプレリュードは、続いて演奏される曲の調を知らしめるだけではなく、指を慣らすためにも役立つ、そしてしばしば初めて弾く鍵盤を試すのに。

最初の4つのプレリュードはすべての年齢に適合するが、特に幼い生徒の場合は、和音のすべての音が完璧に弾けなくても大目に見なくてはならない。しかしその判断はその教師に委ねるものとする。

最初に習う短いプレリュードというのは、前掲のアマーリエ公女の音楽帳のプレリュードみたいなものでしょうか。「初めて弾く鍵盤」というのは、今の標準化されたピアノの鍵盤と違って古楽器の鍵盤は寸法がまちまちなので、初見の楽器をいきなり弾くのは難しいのです。

そしてプレリュード6番と7番の間にも脈絡なく解説が挟まれます。

これらのプレリュードは拍節的に書かれているが、慣習的なスタイルというものがある。つまりプレリュードは想像力だけによって自由に作曲されるものだが、それを即興で行える才能のある人は稀なため、決められたプレリュードに頼る場合は、あまり正確さに固執せずリラックスした演奏をする必要がある、私が Mesuré と指定した箇所以外は。音楽にも韻文と散文というものがあるといえよう。

私がこれらのプレリュードを拍節的に書いた理由の1つは、これらを教えやすく、また習いやすくするためである。

つまり便宜上拍節的に書かれてはいても、心の赴くままに即興しているような振りで演奏すべきということでしょう。これは散文的な音楽であり、プレリュード・ノン・ムジュレの系譜に連なるものなのです。

とはいえフランソワ・クープランのプレリュードは、それまでのプレリュード・ノン・ムジュレとは様相を大いに異にし、また非常にバラエティ豊かです。これらのプレリュードはフランソワ・クープランの作品の中でも最も霊感に富んだ珠玉の作品群といえます。

このプレリュード第1番には、彼が終生追求し続けるスティル・ブリゼの書法が極めて純粋な形で表れています。

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François Couperin (1716)

Nicolas Siret

フランソワ・クープランの友人であるニコラ・シレ (1663-1754) は大変古風な趣味の持ち主で、1710年代も終わろうかという頃になってプレリュード・ノン・ムジュレに始まり定型の舞曲が続くという古典的なクラヴサン曲集を出版しています。この彼の『クラヴサン曲集 第2巻』(1719) はフランスにおけるこの種の曲集の最後のものになります。

この曲集に収録されている彼のト短調のプレリュードは上掲のクレランボーのプレリュードに非常に良く似ています。

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Nicolas Siret (1719)

1720年以降にはプレリュード・ノン・ムジュレは事実上絶滅しており、孤立した作例がいくつか知られるのみです。

Durocher

1733年に出版されたデュロシェのクラヴサン曲集のプレリュードは、そんな数少ない例の1つです。このデュロシェ氏という人物は、曲集の表紙からサン・ジャン・ド・リュズのオルガニストであったことが知られますが、それ以外のことは何も分かっていません。

ドレミファソラシドという主題による短いプレリュード・ノン・ムジュレに続くのはメヌエットによる変奏曲で、このすっかすかの譜面を見るに文化の衰退を思わざるを得ません。

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Durocher (1733)

Claude Balbastre

我々の知る最後のプレリュード・ノン・ムジュレはクロード・バルバトル (1724-1799) の1777年の作品です。

絶え間なく転調するアルペジオと走句からなるこのプレリュードは、軽薄をもって知られる彼にしては意外にも荘厳な逸品です。存外彼はフランス・クラヴサン音楽の伝統というものをしっかり押さえていたのかもしれません。

チャールズ・バーニーは1770年にバルバトルの家を訪れたときのことを、彼の旅行記にこう記しています。

教会の後にバルバトル氏は私を家に招き、素晴らしいルッカースのハープシコードを見せてくれた。それは内も外も、私がパリで見た最上の馬車や、あるいは嗅ぎ煙草入れにも匹敵するデリカシーをもって装飾されていた。外側はヴィーナスの誕生、蓋の内側はラモーの最も有名なオペラ、《カストールとポリュックス》から、地上、地獄、そしてエリシウムが描かれており、エリシウムにはリラを手にした祝福されし作曲者自身が描かれている。1764年に私はラモーに会っているが、その肖像はとても良く似ている。その楽器の音色は力強さよりも繊細さが勝っている。ユニゾンの1つはバフによるが、非常に甘く心地よい。タッチは非常に軽く、これは羽軸のためで、フランスのものは常に弱い。
Charles Burney, The Present State of Music in France and Italy (1771)

この楽器は後にピアノに改造されてしまっているものの現存しています。

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https://www.sothebys.com/en/auctions/ecatalogue/2005/english-and-continental-furniture-part-i-the-mirror-sale-l05310/lot.22.html?locale=en

1789年にフランス革命が勃発すると、アンシャン・レジームを象徴するクラヴサン音楽は弾圧の憂き目に会い、この典雅な芸術の系譜は絶たれます。運悪く革命を生き残ってしまったバルバトルは《ラ・マルセイエーズ》の編曲などをして糊口を凌ぐことになるのですが、それはまたいずれ。

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