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鍵盤楽器音楽の歴史(38)フローベルガー

おそらくフレスコバルディの弟子として最も有名な人物はヨハン・ヤーコプ・フローベルガー (1616 - 1667) でしょう。

フローベルガーの生涯については不明な点が多く、加えて誤った情報が流布している事が多いので厄介です。それはフローベルガーが後に伝説化するほど崇敬された証でもあるのですが。

それでもフローベルガーがフレスコバルディのもとで学んだということは、前掲のキルヒャーの記述や、ローマ教皇庁への神聖ローマ帝国大使シピオーネ・ゴンザーガの書簡などから多分事実だろうと考えられています。

(一般に有名音楽家の弟子という経歴は疑ってかかる必要があります。ヨハン・カスパール・ケルル、ヨハン・ヘッケラウアー、フランツ・トゥンダーなどはフレスコバルディの弟子とされてきましたが、事実でないことが判明しています)

フローベルガーは三十年戦争 (1618 - 1648) 直前の1616年にヴュルテンベルク公国シュトゥットガルトで宮廷音楽家の父バジレウスの五男として誕生しました(生地をハレとする説は誤り)。おそらく父から音楽教育を受けた彼は、1634年頃に神聖ローマ帝国のウィーンに移り宮廷に仕えます。当時ヴュルテンベルクは神聖ローマ帝国と三十年戦争において敵同士であったことを考えると、この就職は謎です。

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ウィーンの宮廷礼拝堂でオルガニストを務めていたフローベルガーは、皇帝フェルディナント3世から200グルデンの奨学金をもぎ取って、1637年からローマに留学します。彼はローマでフレスコバルディに師事すると共にカトリックに改宗しています。

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Kaiser Ferdinand III (1608 - 1657)

そして1641年にはウィーンに帰還するのですが、1645年から再びイタリアに旅立ちます。しかしこのとき既にフレスコバルディは亡くなっているため、一体何しに行ったのか良くわかりません。かつてはジャコモ・カリッシミ (1605 - 1674) に学んだとする説が有力でしたが、今はむしろアタナシウス・キルヒャー (1602 - 1680) の元で研鑽を積んだのではないかと考えられています。

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「遅れてきたルネサンス人」ことキルヒャーは、ヒエログリフから火山まであらゆる分野を研究した万能学者ですが、無論音楽にも造詣が深く Arca Musarithmica と称する自動作曲装置を発明しています。これは旋律やリズムの組み合わせによって音楽を自動で作曲するもので、彼の著書『普遍音楽』 Musurgia Universalis (1650) で解説されています。

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フローベルガーは1649年にウィーンに戻った際、この装置を皇帝に披露しており、また現在『第2巻』として知られている自筆の鍵盤曲集を献呈しています。

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『第2巻』というからには『第1巻』があったはずですが、未だ発見されていません。自筆譜にしてはあまりにも華麗な飾り文字などから、フローベルガーの自筆であることを疑う向きもありましたが、その後の筆跡鑑定などによる研究結果から、これが本物の自筆譜であることは確実と見られており、装飾部分は隠された署名からフローベルガーと同郷のヨハン・フリードリヒ・ザウターの作であることが判明しています。

『第2巻』は4部構成でトッカータ、ファンタジア、カンツォーナ、組曲がそれぞれ6つずつ収録されています。トッカータは6線7線の2段譜、ファンタジアとカンツォーナは4声部の5線譜、組曲は5線の2段譜、とそれぞれ異なった体裁をとっています。

フローベルガーのトッカータはフレスコバルディからの影響が特に指摘されるものですが、実際の所それほど似てはいません。

トッカータの序盤の即興的な導入部分にはフレスコバルディの影響が感じられますが、フローベルガーの場合その後フーガ的セクションと交替するのが常で、こういったことはフレスコバルディのトッカータには見られません。

そして何よりフレスコバルディの奔放な気まぐれに欠けています。フローベルガーのトッカータに聴かれるのは抑制の効いた高雅なデカダンスです。

ただし2曲ある「聖体奉挙のための」トッカータは別で、明らかにフレスコバルディに倣った作品と言えるでしょう。これは当然オルガン曲と考えられますが、その他のトッカータがチェンバロとオルガンどちらをより意図したものかは不明です。

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ファンタジア第1番「Ut, Re, Mi, Fa, Sol, La によるファンタジア」FbWV 201 は8つのセクションを持つ起伏に富んだ大作で、これはキルヒャーの『普遍音楽』にも収録されており、フローベルガーの生前に出版された唯一の作品となっています。

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続くフローベルガーの他のファンタジアはかなり作風を異にし、より小規模で保守的ですが、厳格な対位法による古様式のいずれも劣らぬ佳品です。

ファンタジア第4番「Sol, La, Re によるファンタジア」FbWV 204 は、「ソラレ」と「ラソファレミ」という2つの主題による一種の2重フーガです。各主題の現れるところにソルミゼーションを付して、その対位法的構造を説明しているあたり、このファンタジアというジャンルのアカデミックな性質が強調されています。

「ラソファレミ」が "Lascia fare mi"(私に任せよ)となっているのは、ルネサンスに流行した Soggetto cavato という旋律に言葉を潜ませる技法です。この場合はジョスカン・デ・プレの「ミサ・ ラソファレミ」の オマージュでしょう。

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ところでキルヒャーがこの手のカバラ的手法に興味を持たないはずもなく、『普遍音楽』第9巻「魔術」の「暗号音楽」の章では、音の種類と回数でアルファベットを表したり、アルファベットを音符化する方法が述べられています。

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フローベルガーのカンツォーナもファンタジアと同じく高度に対位法的な作品ですが、より動きが活発です。カンツォーナ第2番 FbWV 302 は異例の重々しい半音階的下降音形の主題で始まりますが、終盤に向かって激しさを増していきます。フローベルガーの対位法音楽は形式的には古風でありながらも確かな調性感によってルネサンスや初期バロックの作品とは一線を画しています。

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フローベルガーの「組曲」は疑いなく彼の最も重要な作品ジャンルです(彼自身は組曲とは称していませんが)。彼はフランス風の組曲をドイツにもたらした功績によって語られることが多いのですが、この『第2巻』の地点ではまだフローベルガーはフランスに行っていないことに注意が必要です。

この1649年には後のイギリス王チャールズ2世がウィーンを訪れており、フローベルガーの演奏を聴いています。この時チャールズ2世の秘書官ウィリアム・スワンは、フローベルガーにフランスの有名なクラヴサン奏者ジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエール (c.1601/2 - 1672) の楽譜を贈ることを約束しており、シャンボニエールと親交のあるオランダのコンスタンティン・ホイヘンスに楽譜を送らせています。しかしこれもまだ後の話。

1638年、フローベルガーが最初のローマ留学に来て間もない頃、オルレアン出身のリュート奏者、ピエール・ゴーティエ (1599 - after 1638) がリュート曲集 Les Ouvres de Pierre Gaultier Orleanois (1638) をローマで出版しています(ちなみにこの「ローマのゴーティエ」ことピエール・ゴーティエは、エヌモン・ゴーティエやドニ・ゴーティエとは無関係です)。

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この曲集はオーストリアのエッゲンベルク公子ヨハン・アントン1世の出資によって出版されており、彼はフェルディナント3世とローマ教皇ウルバヌス8世をつなぐ大使でしたのでフローベルガーがこの曲集を知っていた可能性は高いでしょう。

曲集の内容はプレリュード・ノン・ムジュレに始まりアルマンド、クーラント、サラバンドが調性ごとにまとめられているという典型的なフランスのリュート曲集のものです。フローベルガーの組曲はこのようなフランスのリュート曲を彼なりに鍵盤に落としこんだものと考えられます。

フローベルガーの組曲もアルマンド、クーラント、サラバンドを組にしていますが、組曲第2番 ニ短調 FbWV 602 だけはアルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグという配列をとっており、古典組曲の定型配列が早くも現れています。

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ただしフローベルガーは後の作品ではジーグを第2曲に置くA-G-C-S という配列に切り替えており、さらに死後出版された曲集ではこれが A-C-S-G に改変されているというややこしいことになっています。

初期のフローベルガーの組曲はスティル・ブリゼというには縦の線が揃い過ぎてやや生硬な感じがあります。リュートのタブラチュアの情報だけではフランス音楽の実態は掴めなかったのかもしれません。

ともあれフローベルガーがフランス訪問以前に見事にフランス風の鍵盤音楽をものにしていたということは驚嘆に値します。これらがシャンボニエールのクラヴサン曲とは独立して作り出されたというのは信じがたいことですが、あるいはキルヒャーの人脈によって既にフランスのクラヴサン音楽を知る機会があったとも考えられます。

曲集の最後を飾る組曲第6番 Partita auff die Maÿerin FbWV 606 は舞曲による組曲ではなく、変奏曲としての「パルティータ」です(ただし第7変奏はクーラント+ドゥーブル、第8変奏はサラバンドという舞曲の混ざった変則的な構成)。フローベルガーの変奏曲はこれ1曲のみです。

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びっくりするほどほのぼのした 「マイヤー夫人」のテーマはドイツ民謡に基づくものらしいですが、残念ながら歌詞は失われており、その詳細は不明です。ゲオルク・グレフリンガーは同じ曲を "Schweiget mir vom Weiber nehmen" (俺に嫁を取ることについての話をするな)という歌詞で1651年に出版しています。これは8番まで歌詞がありますが、このパルティータが第8変奏まであるのに関係があるのかもしれません。

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「マイヤー夫人」の旋律は大変魅力的だと思うのですが使用例は少なく、後にヨハン・アダム・ラインケン (1643 - 1722) が Partite diverse sopra l'aria "Schweiget mir von Weiber nehmen" を作曲しているぐらいです。

フローベルガーはウィーンに長居をすること無く、すぐにヨーロッパ中を巡る3年以上に渡る旅に出ます。旅費をどうしていたのか謎ですが、あるいは皇帝の密命を帯びた旅だったのかもしれません。当時はダウランドやルーベンスのように芸術家が諜報活動に使われることがありました。

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