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守護天使のパッサカリア(鍵盤楽器音楽の歴史、第73回)

ザルツブルクといえばモーツァルトの街ですが、今はまだ彼が生まれる100年ほど前の話。

三十年戦争において小国ザルツブルクは、時のザルツブルク大司教パリス・ロードロンの外交手腕によって中立を貫き、戦争を回避することに成功しました。戦禍を免れたザルツブルクは、難を逃れて流入した人々を取り込んで発展を遂げていきます。

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Salzburg 1644, Philipp Harpff.

17世紀後半のザルツブルクを代表する音楽家としては、まずヴァイオリンの名手として知られた、ハインリヒ・イグナツ・フランツ・ビーバー (1644–1704) が挙げられます。

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Heinrich Ignaz Franz Biber, Paul Seel, 1680.

ボヘミア生まれのビーバーは、1670年にはオルミュッツ司教カール・リヒテンシュタイン=カステルコルノに仕えていたのですが、その夏の終わり、司教が彼をヴァイオリンの調達のためにアブサムのヤコブ・シュタイナーの所に向かわせたところ、彼はヴァイオリンを買う代わりに、何故か途中のザルツブルクで大司教マクシミリアン・ガンドルフ・フォン・クーエンブルクに仕えることになっていました。

わけがわかりませんが、2人の雇用主は友人であったため、揉め事にはならなかったようです。そのままビーバーはその後の人生をザルツブルクで送りました。彼は1684年に宮廷楽長に就任し、1690年にはレオポルト1世より騎士の称号を賜り、Heinrich Ignaz Franz Biber von Bibern というさらに長たらしい名前になります。

鍵盤音楽ではありませんが、パッサカリアの歴史を語る上で彼の〈ロザリオのソナタ〉は外せません。

これはヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ集で、各ソナタはロザリオの祈りの十五玄義に対応しており、さらにソナタ毎に特殊なヴァイオリンの調弦(スコルダトゥーラ)を用いる趣向となっています。

ロザリオの祈りとは、ロザリオを繰りつつ天使祝詞(アヴェ・マリア)を唱えながら「受胎告知」から「聖母戴冠」に至る15のエピソードを観想するというものです。

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The Fifteen Mysteries and the Virgin of the Rosary, Netherlandish Painter (possibly Goswijn van der Weyden, active by 1491, died after 1538), ca. 1515–20.

この曲集はタイトルページを欠いた、ただ1つの手稿でのみ伝わっているため、本来の題名は不明であり、日付もありませんが、おそらく1676年頃に書かれたものと考えられています。ちょうどケルルがウィーンでパッヘルベルに教えていた(かもしれない)頃です。

手稿はザルツブルクのガンドルフ大司教への献辞から始まります。

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BSB Mus.ms. 4123.

ソナタといっても、いわゆる教会ソナタも室内ソナタもあり、内容は様々です。各ソナタの最初のページには対応する玄義の挿絵があり、楽譜の冒頭でヴァイオリンの調弦が指示されます。第1番「受胎告知」は通常の調弦で演奏されます。

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https://en.wikipedia.org/wiki/File:Mysterien_sonate.jpg

第4番「イエスの神殿への拝謁」はチャコーナです。これは8小節に渡る独特のオスティナート・バスに基づく変奏曲となっています。短調ということも含め、チャコーナの典型からは大きく外れているのですが、しかしどことなくチャコーナらしさが感じられるような気がします。

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第11番「復活」では第2弦と第3弦を交差させて十字を表します。しかし、これはむしろその前の「架刑」に相応しいような気もするのですが。

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https://www.linnrecords.com/recording-biber-mystery-sonatas

エコー風の導入の後、高らかに鳴り響くのはチェコ・ブレザレン福音教会の賛美歌 "Surrexit Christus hodie" の旋律、ビーバーの故郷の歌です。しかしそれをカトリックの大司教に捧げるというのはどうなんでしょう。

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最後の第16番は番外で、無伴奏ヴァイオリンによるパッサカリアです。これにはスコルダトゥーラは用いられず、第1番と同じく通常の調弦で演奏されます。挿絵は守護天使を描いたもので、これは10月がロザリオの月であり、その2日が守護天使の日であることから、その日に演奏するための曲と思われます。

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この曲は下降テトラコードのオスティナート・バスに基づく典型的なパッサカリアですが、ヴァイオリン一丁でそれを実現するというのは元より尋常なことではありません。重音奏法をはじめとする超絶技巧を駆使した65の変奏からなるこの荘重にして華麗な終曲は、後のJ.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンのための「シャコンヌ」に勝るとも劣らぬ傑作です。

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録音はラインハルト・ゲーベル/ムジカ・アンティクァ・ケルン盤を推します。天に咆哮するようなゲーベルの凄絶な演奏には未だに及ぶものがありません。

鍵盤用のアレンジは意外に見かけないもので、私が見つけられたのはこれ一つだけでした。

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https://richardwillmer.musicaneo.com/sheetmusic/sm-335533_passacaglia_in_g_minor_c_105_op_14.html


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