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中世末期の奇想『シャンティ写本』

百年戦争と黒死病と教会大分裂によって、ヨーロッパの中世が終わりを迎えようとしていた14世紀末、フランスでは記譜法の発展を背景に音楽史上でも類を見ないほど高度に知的で複雑な音楽が作られるようになっていました。

14世紀フランスのポリフォニー音楽様式は、フィリップ・ド・ヴィトリ(1291-1361)の音楽理論書に因んで、アルス・ノヴァ Ars Nova と呼ばれていますが、その後期の極まったものを特に、アルス・スブティリオル Ars Subtilior といいます。「精妙な技法」という意味になります。

アルス・スブティリオルを代表する曲集が、コンデ美術館所蔵)の『シャンティ写本』Codex Chantilly (Musée Condé, MS 564) です。

F-CH MS 564, "Codex Chantilly"

シャンティ写本はBVMM (Bibliothèque virtuelle des manuscrits médiévaux) で閲覧できますが、IMSLPにPDFにまとめられたものがあるので、そちらを落としたほうが手っ取り早いでしょう。

シャンティ写本には14世紀後半の音楽作品が全部で112曲収録されています(バラード70、ロンドー17、ヴィルレー12、モテット13)。しかも多くは作曲者名が示されており、その数は34名にも上ります。

この写本のフランス語には間違いが散見され、フランス式の五線譜ではなくイタリア式の六線譜が用いられていることから、イタリア人によってフランスの資料から書写されたものと考えられています。

タイトルページには1461年に Francesco de Altobianco Alberti(1401-1479)の所有であったことが記されています。彼はフィレンツェの銀行家ですが、前半生には長くフランスに住んでいました。

F-CH MS 564, f. 9

シャンティ写本で何と言っても有名なのは、冒頭に収録された Baude Cordier の2作品、ハート型の楽譜に書かれた《Belle, bonne, sage, plaisant et gente》と、円形楽譜に書かれた《Tout par compas suy composés》でしょう。

しかし、この有名な2作は後からこの写本に挿入されたものであることが分かっています。実際この2つだけは五線譜で書かれていますし。挿入時期や経緯は不明で、作曲者のコルディエについても、ランス出身の15世紀初頭の人物ということぐらいしかわかっていません。

F-CH MS 564, f.11v, f. 12

《Belle, bonne, sage, plaisant et gente》

F-CH MS 564, f.11v

3声のロンドー、とある貴婦人に捧げる新年の歌です。

全体がハート型を成しているだけでなく、歌詞の「心」cuer の部分がハートマークで示されています。画像では薄くて見えづらいですが。

また歌詞を縦読みすると BAVD、つまり作者の名前 Baude を暗示しています。

Belle, bonne, sage, plaisante et gente,
A ce jour cy que l'an se renouvelle,
Vous fais le don d'une chanson nouvelle
Dedans mon ♡ qui a vous se presente.

De recevoir ce don ne soyés lente,
Je vous suppli, ma doulce damoyselle;

Car tant vous aim qu'aillours n'ay mon entente,
Et sy scay que vous estes seulle celle
Qui fame avés que chascun vous appelle:
Flour de beauté sur toutes excellente.

美しく、善く、賢く、優しく、高貴なる方へ
年の改まるこの日に
新しき歌を奉る
貴方に捧げし、我が♡の中で

この貢物を受けること躊躇うなかれ
伏して希う、我が愛しの人よ

我は汝を愛すること深き故に、二心なし
我は知る、ただ貴方のみ
その令名を皆称えて曰く
至高の美の華

ハート型以外に目を引くのは赤い音符でしょう。これはアルス・スブティリオルではよく見られるもので、この場合は音価が通常の2/3になることを示し、変拍子を作り出します。また白符は音価が1/2になります。これにメンスーラの切り替えが加わるともう大変なことに。下に上声部の楽譜と現代譜例を示します。

アルス・スブティリオルは、このような現代に無い記譜法をも駆使した、極めて複雑なリズムが特徴です。そのよろめき躓くような不安定で気怠い調べは退廃の色が濃く、演奏不能とも評されますが、そもそも規則的なリズムによらない歌唱様式が先に発展して、それをどうにか表現するのに、このような記譜法を編み出したとも考えられます。

《Tout par compas suy composés》

F-CH MS 564, f.12

パズルを解いて曲を完成させる、いわゆる謎カノンです。

まず左上の円が歌詞ですが、内容は曲が自己紹介しているだけですね。

Tout par compas suy composés
en ceste rode proprement
pour moy chanter plus seurement

Regarde com suy disposés
compaing, je te pri chierement

Tout par compas suy composés
en ceste rode proprement

Trois temps entiers par toy posés
chacer me pues joyeusement
s'en chantant as vray sentiment

Tout par compas suy composés
en ceste rode proprement
pour moy chanter plus seurement

我は尽くコンパスにて造られたり
確かに、円形に
我を正しく歌うため

我は尽くコンパスにて造られたり
確かに、円形に

如何にすべきか見て取るべし
友よ、よろしく頼む

三周にて閉じる
君は喜び我を追わん
真心より歌うならば

我は尽くコンパスにて造られたり
確かに、円形に
我を正しく歌うため

中央の内側はテノール声部の楽譜。文字は “Tenor cuius finis est 2a. nota”(テノールは2番目の音で終わる)。

外側は上声部の楽譜で、 “Tout par compas suy composés…” という歌詞と、2声のカノンとして歌うための声の入りが示されています。しょうもない歌詞がエコーのように響く虚しさは、どこか機械音声のアナウンス的な趣があります。

円形楽譜の作品なら、永久に続く無窮カノンにするのが理にかなっているのですが、歌詞の指示に従えば3周でおしまいにするようです。

他の3つの円は代替の歌詞でしょうか。

右上。

Seigneurs je vous pri chierement
priés pour celle qui m’a fait
Je dis a tous communement

Seigneursm je vous pri chierement
que Dieu a son definement
le doint pardon de son meffait

Seigneursm je vous pri chierement
priés pour celle qui m’a fait

主よ、心より汝に祈る
我を造りし者に祈る
全てを造りし者に

主よ、心より汝に祈る
そは神は過ちの赦しを
定める者なれば

主よ、心より汝に祈る
我を造りし者に祈る

左下、作曲者がランス出身だとわかります。

Maistre Baude Cordier se nome
cilz qui composa ceste rode
Je fais bien sçavoir a tout home

Maistre Baude Cordier se nome
De Reims dont est et jusqu’à Rome
sa musique appert, et a rode

Maistre Baude Cordier se nome
cilz qui composa ceste rode

その名はボード・コルディエ師
この円を造りし者
彼を皆に紹介しよう

その名はボード・コルディエ師
故郷のランスからローマまで
彼の音楽と、この円は知られたり

その名はボード・コルディエ師
この円を造りし者

右下、また♡が出てきます。

Par bonne amour et par dilection
j’ay fait ce rondel pour enoffre
Icy peut prendre consolacion

par bonne amour et par dilection
tout ♡ et corps, et mon affection
A son plaisir sont, et li offer

par bonne amour et par dilectïon
j’ay fait ce rondel pour enoffre

善愛と献身より
このロンドーを捧げたり
彼は慰めを得られよう

善愛と献身より
すべての♡と体と愛情を
彼の喜びに捧げて

善愛と献身より
このロンドーを捧げたり

というわけで、この曲はカノンであり、ロンドーでもあり、また3周してテノールの2番目の音で終わるといった条件を鑑みつつ、楽譜をリアライズしなければなりません。解法はいくつか考えられます。

《Fumeux fume par fumée》

F-CH MS 564, f. 59

 シャンティ写本の作曲家中、最多の11作品が載る Solage 《Fumeux fume par fumee》

コルディエの2作はシャンティ写本でも例外であって、他は大体こんな感じです。

とはいえ、これも低声のみの3声のロンドーという異例の作品ですが。

Fumeux fume par fumée
Fumeuse spéculation.
Qu'entre fumet sa pensée
Fumeux fume par fumée.

Car fumer moult lui agrée
Tant qu'il ait son entention.
Fumeux fume par fumée
Fumeuse spéculation.

煙によって煙く煙る
煙たい思索
彼は煙の中で考える
煙によって煙く煙る

煙は彼を愉しませる
彼に心がある限り
煙によって煙く煙る
煙たい思索

ここは中世ヨーロッパ、タバコもジャガイモもあと100年ほど経たないと手に入りません。なので喫煙しているのは大麻でしょうか。異様な半音階的下降と錯綜した和声が、どこまでも落ち込んでいくようなダウナーな雰囲気を醸し出しています。

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