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鍵盤楽器音楽の歴史(10)16世紀イギリス:『マリナー・ブック』

16世紀のイギリスには印刷された鍵盤音楽は存在せず、1612年頃の『パーセニア』を待たなければなりません。とはいえ当時音楽が下火であったということはまったくなく、ヘンリー8世からエリザベス1世にかけてのイギリスは音楽史的には非常に実り豊かな時代だったのですが。

"Parthenia" (c.1612)

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"the first musicke that ever was printed for the VIRGINALLS" などと誇らしげに書かれているけど、そもそも出すのが1世紀ほど遅い。

そんなわけで16世紀イギリスの鍵盤音楽は手稿資料に頼ることになります。ドイツと違ってタブ譜ではないのがせめてもの救い。

16世紀初期の鍵盤音楽資料として最大のものが『マリナー・ブック』The Mulliner Book (GB-Lbl Add. Ms.30513) で、16世紀中頃に編纂され123曲を収録しています。

"Sum liber thoma mullineri" (私はトマス・マリナーの本です)

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作曲者としてはトマス・タリス (c.1505-1585)、ジョン・レドフォード (c.1500-1547)、ジョン・ブライズマン (c.1525-1591)、などの名が見られます。収録曲の多くは聖歌を定旋律にした作品で、特に目につくのは "Gloria tibi Trinitas" あるいは "In Nomine" です。

この2つはシノニムであり、地方聖歌であるセーラム聖歌の『なんじ聖三位一体に栄光あれ』 "Gloria tibi Trinitas" の旋律を用いた曲です。

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それが何故 "In Nomine" なのかといえば、これは直接的にはジョン・タヴァナー (c.1490–1545) による件の聖歌に基づくミサ曲『ミサ・グロリア・ティビ・トリニタス』の「ほむべきかな主の御名によりて来たるもの」"Benedictus qui venit in nomine Domini" という箇所の "in nomine Domini" の部分の曲に由来するからです。

John Taverner, Missa "Gloria tibi Trinitas" (Altus), Forrest-Heather Partbooks.

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"In Nomine"

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タヴァナーの『ミサ・グロリア・ティビ・トリニタス』は神秘的な叙情性をたたえるチューダー朝のポリフォニー・ミサ曲の中でもとびきりの傑作なのですが、何故かこの部分だけを楽器で演奏することが流行し定番化しました。豪華絢爛たるこのミサ曲の中でも比較的地味な部分なのですが。

そして同じ定旋律を用いて新しく曲が作られ、それらも『イン・ノミネ』、『グロリア・ティビ・トリニタス』と題されたのですが、不思議なことにそれらは大抵タヴァナーの原曲には全く似ていません。

The Mulliner Book, f. 88v

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何がそんなに受けたのかよくわかりませんが、『イン・ノミネ』はその後ヘンリー・パーセル (1659-1695) の時代まで作られ続け、150曲以上が残されています。

『マリナー・ブック』にはパヴァーヌなどの舞曲もいくつか収録されています。パヴァーヌとガリアルドはイングランドのヴァージナリストたちのお気に入りの舞曲で、以後多くの作品が生み出されることになります。

The Mulliner Book, f. 110v

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ところでイギリスの鍵盤楽曲では、音符の上に斜めの線が1本か2本入っているのをよく見かけます。これはそれぞれシングル・ストローク、ダブル・ストロークと呼ばれ、装飾音記号であると見られていますが、これについて解説している同時代資料が皆無なため、未だにどう弾けばいいのか謎に包まれています。おそらくトリルかモルデントであろうとは考えられていますが、すべての資料に対して一貫した解釈を与えるのは難しいようです。

The Mulliner Book, f. 4r

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ちなみに前掲の f. 88v には「3本線」が見られますが、これは極めて稀なもので謎の中の謎です。

次回もイギリス。

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