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鍵盤楽器音楽の歴史(58)17世紀スペイン、分割鍵盤のティエント

16世紀後半から17世紀前半のスペイン、いわゆる「黄金時代 Siglo de Oro」の末期であり、ミゲル・デ・セルバンテス(1547–1616)や、エル・グレコ(1541–1614)、ディエゴ・ベラスケス(1599–1660)らが活躍した時代、音楽の分野では神秘的なレクイエムで知られるトマス・ルイス・デ・ヴィクトリア(1548–1611)が有名ですが、もちろん鍵盤音楽の分野でも多くの作曲家が作品を残しています。

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Diego Velázquez〈Vieja friendo huevos〉(1618).

しかしながら、ベルナルド・クラヴィホ・デル・カスティーヨ (c1550–1626)、セバスチャン・アギレラ・デ・エレディア (1565–1620)、マニュエル・ロドリゲス・コエリョ (1583–1623) といった彼らの名前がどれほど知られているでしょうか。近年、楽譜資料のデジタル化とインターネットでの公開が進められているとはいえ、彼らの作品の本格的な研究は未だ端緒についたばかりといえます、況や演奏をや。 

そんな不遇なスペイン黄金時代の音楽家の中でも比較的取り上げられることの多いのが、フランシスコ・コレア・デ・アラウホ Francisco Correa de Arauxo (1584–1654) です。彼の現存作品は著書《オルガン技法 Facultad organica》(1626)  に収録されているものが全てです。

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Francisco Correa de Arauxo《Libro de tientos y discursos de musica practica, y theoríca de organo, intitulado Facultad organica》(1626).

これは2部に分かれており、前半は音楽理論の説明、後半は曲集となっています。

しかし楽譜は例によって「スペイン式オルガン・タブラチュア」で書かれているので厄介です。これがこの時代のスペイン鍵盤音楽の研究が進まない一因のような気がしてなりません。

スペイン式タブラチュアのルールは単純明快ですが、だからといってこれを使った楽譜をすらすらと読める人が今の世界にどれだけ居るでしょう。

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Hakalahti, Iina-Karita. “Maestro Francisco Correa de Arauxo's (1584-1654) Facultad orgánica as a Source of Performance Practice.” (2008)

前半の理論の部にはタブラチュアの読み方はもちろん、運指や装飾音も解説されています。このようなトリル (Redoble) は楽譜中に "R" で適用箇所が指示されています。 

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Willi Apel, The history of keyboard music to 1700 (1967).

後半には難易度順に曲が収録されており、その69曲中62曲は「ティエント Tiento」と題されていますが、内容は様々です。

第1番〈第1旋法のティエント Tiento de Primero Tono〉

序盤の作品はカベソンに近い作風ですが、アラウホのティエントは半音階と不協和音の使用が顕著です。この辺は比較的易しいとはいっても作品内容は充実しており、演奏にも相当に高い技術が要求されます。

ちなみにアラウホは旋法に則っていますが、伝統的な8旋法ではなく、グラレアヌスの《ドデカコルドン Dodecachordon》(1547) で提唱された12旋法理論を採用しています。

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第29番〈半分の鍵盤の高音による第7旋法のティエント第5番 Quinto Tiento de Medio Registro de Tiple de Séptimo Tono〉

ややこしい題名ですが、当時のスペインのオルガンは、鍵盤の c1-c1# を境に高域と低域で別のストップを割り当てることのできる分割鍵盤となっており、"Medio Registro de Tiple" は右手の高域側にリード系のストップを割り当て、左手の伴奏の上で走句を弾く曲です (逆の場合は "Medio Registro de Baxon")。アラウホの62曲のティエント中、36曲がこの "Medio Registro" タイプです。これらは「バロック的」ともいえる新機軸の音楽ですが、この種の曲には以前に紹介したようにフランシスコ・ペラーサ (1564–1598) による前例があります。

これらは対応する楽器ならば、1段の鍵盤だけでストップ操作も必要とせず巧妙に音色を弾き分けられるように作曲されており、逆に2段鍵盤だと上手くいきません。分割点を跨いで片手で高域側と低域側を同時に弾くような箇所があるからです。

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第52番〈全鍵盤による第1旋法のティエント Tiento de Registro Entero de Primero Tono〉

鍵盤を分割しないで一様の音色で弾くものです。この第52番は5声のポリフォニーによる壮大なスケールの傑作で、同時代でこれに匹敵するものはスヴェーリンクのファンタジアぐらいのものでしょう。しかしその荘厳かつ情熱的な作風は北ヨーロッパのものとは明らかに異なります。

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第65番〈「雌牛を見張れ」による変奏曲 Glosas Sobre El Canto Llano "Guárdame Las Vacas" 〉

ティエント以外には、聖歌を定旋律にした作品2曲、シャンソンの編曲2曲、そして世俗の歌に基づく変奏曲が3曲収録されています。

この「雌牛を見張れ」はいわゆるロマネスカです。これはどちらかというとクラヴィコードやチェンバロ向きの曲でしょう。

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アラウホはフレスコバルディ (1583–1643) と同世代ですが、両者の音楽にほとんど繋がりは見いだせません。しかしながらアラウホの作風はカベソン以来のルネサンス鍵盤音楽を継承しながらも主情的な表現に踏み出しており、その意味ではスペインならではの「バロック」鍵盤音楽を開拓していると言えるでしょう。

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