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鍵盤楽器音楽の歴史(46)ルイ・クープランのプレリュード・ノン・ムジュレ

123曲のルイ・クープラン作品を収録するボーアン写本の第2巻は、まず独特の記譜法による14曲のプレリュードから始まります。

これらは プレリュード・ノン・ムジュレ Prélude non mesuré と呼ばれる規則的なリズムを持たない無拍のプレリュードで、ルイ・クープランはこれを小節線も音価の区別も無く、すべて全音符と自由な曲線によって記譜しています。

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Louis Couperin: Prelude 7 in A minor (Ms. Bauyn, vol. 2, f. 12v) 

これらの音符は音高を示すのみで、音価については演奏者に委ねられており、様々な曲線は音の持続を指示したり、旋律のまとまり、和声の区切りなどを示したりしているものと「考えられています」。

つまるところ、このようなプレリュード・ノン・ムジュレの記譜法について説明している同時代資料は存在しないので、全ては推測に過ぎません。

実際にこの《プレリュード第7番 イ短調》を例にして見ていくと、まず冒頭の2回繰り返されるAマイナーの和音のそれぞれの音から斜め上に延びる線は、アルペジオで弾いた音を持続させることを表しているのだと考えられます。どうも楽器から出た音は、煙のように上に昇って消えていくらしいです。

次の箇所で左手の「ラ-ソ♯」と右手の「ド-シ」の2音が短い曲線で結ばれているのは、これが前打音 (Port de voix) であることを意味しているようです。

ところで、もう一つのルイ・クープランのクラヴサン曲の重要ソースである パルヴィル写本 Parville manuscript (US-BEM 778) にも同曲が収録されていますが、ここに線はなく、かわりに前打音が二重になっています(さらにトリルも付いてる)。

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(Chung 2012)

ボーアン写本に装飾音が乏しいことは以前に述べましたが、パルヴィル写本のルイ・クープラン作品の楽譜はボーアン写本よりも装飾音が豊富です。

パルヴィル写本の成立は1670年頃と考えられ、ボーアン写本よりも古い可能性がありますが、これはボーアン写本が元あった要素を省いたというよりも、ボーアン写本はプロフェッショナル向けの楽譜でパルヴィル写本はそれを「リアライズ」したものなのではないでしょうか。

一段目の末尾の箇所ではボーアン写本では3本の線が延びており「ソ♯ ラ ミ」の音を持続させることが指示されているように見えます。しかしここでこんな不協和音を弾き続けるのは流石に変です。パルヴィル写本では線は2本で「ソ♯」の音符からは線は出ていません。然るにボーアン写本の一番上の線は本当は「ド」に向いているのだと見れば無理がありません。

かくしてデイヴィッド・モロニーの校訂版では両写本を検討した結果以下の様になっています。たぶん現代の演奏ではこれが最も一般的に用いられているのではないでしょうか。トン・コープマンなどは複数資料を混ぜてキメラを作ることに強く反対していますが。

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(Moroney 1985)

このようなアナログな線のニュアンスは筆写の際に変化を免れないため、どの版を信用すればいいのかが悩ましい問題となります。個人的にはボーアン写本の勢いよく伸びる線に頼もしさを感じますが、内容はパルヴィル写本の方が理不尽さが少ないように思います。ただ、パルヴィル写本は合理的に解釈し直したような風があり、ボーアン写本はわけのわからない点も含めて生っぽさが感じられます。

このプレリュード第7番は、ルイ・クープランのプレリュード・ノン・ムジュレの中でも特に短くシンプルでとっつきやすいため、古くから研究が盛んで、現代譜も様々に作られています。しかしこれらは結局の所ルイ・クープランの記譜のエレガントさを追認するものでしか無いように思われます。

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(Chang 2011)

ルイ・クープランの記譜法はやはりリュート音楽に由来するものと考えられます。『ヴィルジニア・レナータのリュート曲集』(c.1630) に収録されているこのプレリュードは、小節線とリズム表記を欠き、斜めの線で音符が纏められています。

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Lautenbuch der Virginia Renata von Gehema, D-B Mus.Ms. 40264, p. 64

ルイ・クープランのプレリュードの多くは、このようなささやかな即興的作品に比べてはるかに長大であり、中には中間部にフーガを含むものもあります。このようなタイプのものを「グラン・プレリュード」と呼んだりもしますが、これらはおそらくフローベルガーやイタリアのトッカータの影響によるものと考えられます。フレスコバルディが『トッカータ集』の序文において、拍子に従わずに、自由に演奏することを求めているのに対し、ルイ・クープランは最初から自由な記譜法をとっているまでのことです。

ただしフレスコバルディやフローベルガーとは異なり、ルイ・クープランのプレリュードの記譜法と音楽はどこまでもクラヴサンという楽器に結びついており、クラヴサン以外のいかなる楽器によっても真価を発揮させることは不可能です。

フローベルガーのトッカータ第1番と、ルイ・クープランのプレリュード第6番《フローベルガー氏の模倣によるプレリュード Prélude à l'imitation de Mr Froberger》の相似性については、以前にも述べたとおり、ルイ・クープランはフローベルガーのトッカータの冒頭の和音を、華麗な分散和音としてリアライズしたものを、実際の演奏に即して記譜しているのではないかと考えられます。

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(Odermatt 2018)

この「フローベルガー氏の模倣による」という題名はボーアン写本には無く、パルヴィル写本でのみ見られるものです。両者の内容もやはり装飾音や線の掛け方などでかなりの違いがあり、以下に示した箇所はボーアン写本だと音の区切りがどうもしっくりせず、パルヴィル写本の方が説得力があると思うのですが、モロニーはここではボーアン写本の方を採用しています。

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(Moroney 1985)

録音に聴く演奏では、この箇所をレオンハルトはパルヴィル写本流に弾いており、ヴェルレはモロニー版に準拠しているようです。

このプレリュードは中間部にフーガ的セクションを持つ「グラン・プレリュード」です。フーガ部分は流石に普通の記譜法で書かれています。この3拍子の軽やかな舞曲風のフーガは、瀟洒で感傷的な旋律が印象的な逸品で、こういうものはフローベルガーにはとても書けそうにありません。

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Ms. Bauyn, vol. 2, f. 10v

パルヴィル写本の方では、ここでもやはり豊富な装飾音の指定が見られます。モロニー版も当然これを採用しています。

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(Moroney 1985)

ボーアン写本の筆者はここでミスをしたらしく、「井」のようなマークの有るところには fin 以降に書かれた部分を挿入しなければなりません。

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Ms. Bauyn, vol. 2, f. 11r

フーガの後は再び「ノン・ムジュレ」となり、壮絶な和声と走句の嵐に突入します。ここに至ってはもはや「フローベルガー氏の模倣」などというものではなく、まして誰にも真似などできない、まさしくルイ・クープランだけが到達し得た天衣無縫の音楽です。

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Ms. Bauyn, vol. 2, f. 11v

ここでルイ・クープランは左手に10度の和音を要求してきます(例えば上掲 f. 11v 4段4番目の和音 A-c)。これはルイ・クープランの作品にしばしば見られるものですが、ショートオクターヴなどによる解釈は不可能で、単にルイ・クープランは大きな手を持っていたのだと思います。

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Ms. Bauyn, vol. 2, f. 12r

この様なトッカータ的な作品とは別に、ルイ・クープランのプレリュードにはアルマンド的な穏やかな作品も見られます。これらはフローベルガーによる「裁量によって avec discretion」という指示を持つトンボーなどと同じ系統の作品と考えられます。やはりフローベルガーは拍節的に記譜した曲を拍子に囚われずに演奏することを要求し、一方ルイ・クープランは最初から自由な形で書いているのだと思います。

この《プレリュード第13番 ヘ長調》は曲想において、同じくルイ・クープランの《ブランロシェ氏のトンボー》に酷似しています。どちらかが原型になっているのか、はたまた対になる作品なのか、といったことは不明ですが、両者の音楽的内容が同質のものであるとすれば、これらを比較検討してみることは、謎めいたプレリュード・ノン・ムジュレの記譜法の理解につながることが期待できるでしょう。

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Louis Couperin: Prelude 13 in F major (Ms. Bauyn, vol. 2, f. 18r)

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Louis Couperin: "Tombeau de M. Blancrocher" (Ms. Bauyn, vol. 2, f. 49r)

参考文献

Chang, Philip Chih-Cheng. (2011). Analytical and Performative Issues in Selected Unmeasured Preludes by Louis Couperin. Doctor of Philosophy diss., University of Rochester.

Chung, David. (2012). The Port de Voix in Louis Couperin’s Unmeasured Preludes: A Study of Types, Functions and Interpretation. In Performer’s Voices across Centuries and Cultures, 59–84. London: Imperal College Press.

Gustafson, Bruce. (2009). French Unmeasured Preludes for Harpsichord:
Unpretentious Functionality and Artistic Statement." International Musicological Society, Amsterdam, July 2009.

Hung, Melody. (2011). Three Anonymous French Seventeenth-Century Preludes from the 'Parville Manuscript'. UC Berkeley: Library.

Moroney, Davitt. (1985). Pièces de Clavecin de Louis Couperin. Éditions de l’Oiseau-Lyre.

Moroney, Davitt. (2001). "Prélude non mesuré." The New Grove Dictionary of Music and Musicians. 2nd ed. London: Macmillan.

Odermatt, Ariana. (2018). Historical performance practice of the prélude non mesuré and its relationship to recording and performance. Australian National University.

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