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鍵盤楽器音楽の歴史(35)音楽の花束

『音楽の花束』Fiori Musicali (1635)

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フレスコバルディの生前に新規出版されたものとしては最後の曲集『音楽の花束』、これはミサのためのオルガン曲集で、「主日のミサ」「使徒のミサ」「聖母のミサ」の3セットが収録されています。

フレスコバルディはその生涯の大半でサン・ピエトロ大聖堂のオルガニストを務め、ミサにおけるオルガン演奏は彼の主要な職務であったわけなのですが、彼の就任時には長きにわたってサン・ピエトロ大聖堂は工事中でした (1506-1626)。オルガンを解体して移動するなどの作業もあり、工事の最盛期には昼夜を問わず800人以上の職工がデスマーチを繰り広げていたといいますから、そんな環境でミサを執り行うのは苦労したことでしょう。

Maerten van Heemskerck, 1535.

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ところで『音楽の花束』でいかにもミサ曲らしいのはアルテルナティム形式(聖歌隊とオルガンが交互に演奏する)の「キリエ」と「クリステ」があるだけで、あとはトッカータ、カンツォーナ、リチェルカーレなどおなじみの曲が並んでいます。

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これらは「聖体奉挙のためのトッカータ」、「クレドの後の半音階的リチェルカーレ」などミサにおいて演奏すべき箇所が指定されていますが、別段宗教的な内容を持っているわけではなく、「聖母のミサ」の「使徒書簡朗読の後のカンツォーナ」などは前回見た「フィアメンガ」が主題です。

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参考としてローマ典礼様式のミサ式次第を示します。

入祭唱 (Introitus) 
キリエ (Kyrie) 
グローリア(Gloria)
集会祈願 (Collecta)

使徒書簡朗読 (Epistula)
昇階唱 (Graduale) 
アレルヤ唱 (Alleluia) または詠唱 (Tractus) 
続唱 (Sequentia)  
福音書朗読 (Evangelium) 
クレド (Credo)

奉献唱 (Offeritorium)
奉献祈願 (Susipe) 
密唱 (Secreta) 

叙唱 (Praefotio) 
サンクトゥス (Sanctus) 
典文 (Canon)
聖体奉挙 (Elevation)

主の祈り (Pater noster) 
アニュス・デイ (Agnus dei)
聖体拝領唱 (Communio)
聖体拝領祈願 (Post communio)

閉祭の儀 (lte missa est) 

たとえば「使徒書簡朗読の後」というのは「昇階唱」にあたり、こういった箇所で合唱の代わりに世俗的なオルガン演奏を行うことが当時は認められていたようです。

つまるところ、今まで様々な曲集で見てきたリチェルカーレやカンツォーナなどもミサにおいて演奏されるような曲だったのです。またこれらはオルガンではなく複数の楽器で演奏されることもありました。楽譜がオープンスコア(パルティトゥーラ)形式を取っていることはその点でもメリットがあったでしょう。

『音楽の花束』の作品は実用性と教育性を重視しているためか全般的に小規模で保守的で地味です。ここにはバロック的といえる要素はほとんどありません。

ミサの開始を告げるトッカータも、彼のトッカータ集の作品とは大いに作風を異にします。

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しかしおそらくはその保守性故に『音楽の花束』は音楽史上で最も流布した鍵盤曲集の一つとなり、18世紀においても厳格な対位法による「古様式」Stile Antico を学ぶためのオルガニスト必携の書でした。J.S.バッハの蔵書に『音楽の花束』の写本が含まれていたことは有名です。

一方で『音楽の花束』以外のフレスコバルディの作品は早々に忘却され、フレスコバルディの名はモンテヴェルディよりはむしろパレストリーナと並ぶ対位法の大家として記憶されることになります。これは鍵盤上のバロック音楽の開拓者、前衛的なトッカータや「100のパルティータ」の作者としてのフレスコバルディには全くそぐわない評価ですが、この様な認識は20世紀に至っても残存し、古めの文献ではフレスコバルディに対する見当外れな評価をしばしば目にすることになります。

フレスコバルディの作風は歳を重ねるごとに和声的に洗練され分かりやすいものになっていく傾向が見られます。1640年、フレスコバルディが亡くなる3年前のピエトロ・デッラ・ヴァッレの記述によると 、「未だ存命のフレスコバルディ氏」は「よりギャラントな別の現代的なファッション」を採用するようになっており、それは「より優雅で、理論的でなく、人々を愉しませる」ものであったということです (Della musica dell’età nostra che non è punto inferiore, anzi è migliore di quella dell’età passata, 1640)。残念ながらこれに該当するようなフレスコバルディの作品は見つかっていません。

次回はフレスコバルディ以降のイタリアについて。

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