欠けていることの価値
わたしはひとより海馬が小さいです。
海馬とは脳の一部分で、新しいことを記憶するとき一時的にデータを保存しておく場所なのだそう。
ひとより海馬が小さい、というのは比喩でもなんでもなく、MRIを撮った結果、片方の海馬が萎縮したのか生まれつきか、小さく空洞を作っていることがわかったのです。
脳の一部が欠けている、ととらえると、絶望的なことかもしれません。
しかし、わたしは昔から勉強はよくできましたし、今もこうしてすらすらと文章を書く力もあります。
だからといって「欠けている」自覚がないかというと、そうでもないです。
占い師をしていますから、人の生年月日や相談内容をよく聞いて答えますが、なにを聞いたかは鑑定が終わるときれいさっぱり忘れてしまいます。
ある意味便利なことかもしれません。うかつに個人情報を漏らす心配が少ないので。
普通に不便を感じていることもあって、たとえば、あれをしようこれをしようと次々やりたいことは思いつくのですが、それをやりきるまで覚えていられることはあまりないです。
そのため「やりたいことリスト」をとにかく書きちらすのですが、だいたいはリストを作ったことも忘れてそのままです。
何年かたってリストを発掘し「いっこもやってねーじゃん」と笑っておしまい、ということが多いです。
まあ、あるあるだとは思うのですが、私のようにはっきりと物理的に「欠けている」部分がなくても、どこかしらに困難を抱えた人は少なくないと思います。
少なくないというか、誰しもその人だけの困難を抱えているものです。バリアフリーとかダイバーシティとかいうのは「人間はみんな同じ条件のもと頑張っている」という幻想からの解放です。
同じ条件を持った人などひとりもいません。たまたま「その場に適応した条件」の人が残っているだけで、排除されてしまった人もいれば、その場に残った人だってそれぞれの条件にどうにか都合をつけてそこにいるのです。
「欠けている」ことはあたりまえのことですが、だからといって軽視してよいものではありません。
自分のどこが「欠けている」のか理解し、必要な配慮を説明することができ、「欠けている」部分をどう補うか工夫ができると、才能を十分発揮することができます。
「欠けている」ことは才能の一部でもあるのです。
なぜなら、人は欠けている部分に困難を感じると、それを強く意識します。
強く意識し、不具合を解決し、うまくやろうとします。
それがすなわち成長であり、才能の発揮につながるのです。
「欠けている」ことは、自分の内側だけに限りません。
たとえば家庭環境が「欠けている」人もいれば、成長の過程で出会う人に「欠けている」人もいるでしょう。
それに不満や困難を感じ、どうにか取り返そうとしたとき、その人は強い力を発揮します。
「欠けている」「そこにない」ことは、空白の部分に良くも悪くも理想を作ります。
それを得られなかったことを恨むだけに甘んじるか、どうにか手につかもうともがくのかが、その人の行く先を決めるのだろうと思います。
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