7日目:やくにたたないという旗をかざす
昔ポッドキャストでも語ったことがあるのですが、わたしの活動は「やくにたたないこと」をモットーとしています。
世の中は役に立つことばかりです。誰もが競って「私の発信する情報は役に立ちます」「こんなに役に立つ情報は価値があるでしょう?」と宣伝して回ります。
それは「役に立たなければ存在する価値がない」という圧力になってはいないでしょうか。
役に立つことはすばらしいことです。でも、同時に、なんの役にもたたないことだって、同じようにすばらしいはずです。
役に立つことは自然と人々の口を伝い、広まることを思えば、もっと「やくにたたないこと」を押し出し、賛美することが必要なのではないでしょうか。
役に立たないものは価値がない、必要ないと切り捨てる世界の先にあるのは、あなたが切り捨てられる世界です。
どんなものも価値の判断を根拠に切り捨てられてはならないのです。個人が「自分にとって価値がない」ものを取り入れないのは自由ですが、それは取り入れなかったものの存在を受け入れてはじめて許される自由です。
自分にとってやくにたたないものは、誰かにとってやくにたつものかもしれません。さらに、誰のなんのやくにもたたないものも、勝手に切り捨てることは許されません。
一度失われたものは、取り戻すことができないからです。
現代のわたしたちが「これには価値がない」と切り捨てたものが、未来の誰かにとってどうしても必要なものだった、というとき、現代のわたしたちは責任をとれません。
できるかぎりのすべてを、人類は抱えていく必要があります。無駄なものなどひとつもないか、たとえ無駄だとしてもそれは豊かさであり、排除するべきではありません。
わたしはおそらく、今の時点ではなんのやくにもたたない社会のお荷物です。生活保護と障害年金に生かされ、生産に寄与せず、口ばかり一丁前に不満を述べては労働から逃げ、社会を恨んで過ごしています。
そんなお荷物はわざわざ養う必要がないでしょうか?
では、わたしが病気のために働くことができず、生活保護と障害年金でつつましく暮らし、社会への感謝を捧げてできる限りの奉仕をするなら、養ってやってもかまわないのでしょうか?
条件は同じはずです。わたしが受け取る金額はどちらも変わりません。わたしの態度や「社会に貢献しているかどうか」は、わたしを「養ってやる」理由になるでしょうか?
気持ちの上で、働きもせず福祉に生かされている自覚があるのなら感謝くらいしたらどうなのだ、と思うのは自然でしょう。しかし、わたしの人権は、わたし自身の価値によって増減するものではありません。わたしがどんな暮らし方をするのであれ、わたしは健康で文化的な最低限度の生活を保障されなくてはいけません。
それは憲法にさだめられているからだけではなく、わたしという人間そのものが社会にとって可能性だからです。いま働けなくても、いつ自分の生業を見つけて活躍するかわからない。同じように、いまどれだけ活躍している人も、いつ体を壊して働けなくなるかわからない。どんな人にもすべての可能性があります。
今日のわたしを切り捨てることは、いつか働けなくなったあなたを切り捨てることです。
生活保護や障害年金を打ち切って切り捨てるところまでいかなくても、あなたが「養われている身分なら感謝くらいしたらどうなのだ」と向けた視線は、いつあなた自身に返ってくるかわかりません。自分はそうなったら社会に感謝してつましく生きるからかまわない? どんなにつましく生きても、常に後ろめたい気持ちを抱えていなければならないのはつらいですよ。そんなつらさは、誰ひとり味わう必要のないものです。
役に立つものには、当然価値があるでしょう。
でも、価値を基準に何かをおとしめてはいけません。
価値のないものを愛し、賛美することこそが、すべての人を、ひいてはあなたを愛し、賛美することになるのです。
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