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非生産的逃避 〜角田光代

新しい年を迎えるに当たって、大掃除をする人も多いと思います。
でも大掃除って、「さあ、やりますか」と自分に掛け声を掛けても、なかなか腰が上がらないもの。普段の掃除は掃除機をチャチャっとかけて終えるのですが、大掃除ともなれば、普段は時間がなくて出来なかったあそこやら、ここやらに手を入れないと意味がない気がして、非常にそれが面倒なのもわかっているので、気が進まないのです。

そんなスタート時点のハードルを無事越えて大掃除の作業に取りかかったとしても、次に陥るのが「捨てるものと残すものを分別するため」という名目でやり始める逃避です。
棚にあった本を読み返したり、箪笥の奥にあった服を引っ張り出して鏡に写してみたり。こうなると、もう大掃除ではなく、大回顧展状態。収集がつかなくなって、大掃除をしようと思った自分を後悔すらし始める。皆さんもこうした経験はあると思います。

角田光代さんが「非生産的逃避」で書くのは、こうしたシーンです。いわゆる「やるべきことが山積みの時にべつのことをする」という場面で、角田さんの場合は、自分の日記を読み返したり、買い物に出かけてしまったり、猫と遊び始めたりしてしまうそうです。そして、そういう自分の逃避行為はいずれも、非生産的であると自省されています。
そもそも逃避なのですから、生産的であるはずもないと思いますが、例えば運動をしたり、料理をしたりする逃避行為なら生産的なのに、と角田さんは述べています。

しかし、逃避にそもそも生産的なことなんてあるはずもなく、結果的に逃避したことによって、本来意図していた目的とは別の何かを得ることができたということは、たまたま起きるかもしれない。その程度の、棚からぼた餅的な体験は、私にもあります。

私は小さい頃からおじいちゃん子でしたが、祖父は私が小学校5年生の時に亡くなりました。

亡くなった後、祖父の使っていた部屋を私の部屋にしてあげるから、ということで、その部屋を引き継いだのですが、祖父は国語の教員をしていたこともあって、祖父の部屋の壁一面は天井まで作り付けの本棚となっていて、その本棚にはびっしり本が詰まっていました。

何しろ本を入れすぎて床が凹むかもしれないから、その部分だけ床下にコンクリートの土台を入れる改修をしたくらいなのです。

さて、私のものを入れるスペースを作るために祖父の部屋の本棚にあった本の整理を始めた私なのですが、一冊ずつ見て、下手すれば読み始めてしまって、全く進まないのなんの。

教えていた古典の原典なんかには、所狭しと書き込みがあって、小学校5年生の私には何のことやらさっぱりわからなかったけれど、祖父の仕事へのプライドというか、本当に言葉で紡ぐ物語が好きだったんだなと。さらに仏像の大版の写真集全巻十二巻なんかもあり、見始めたら、もう止まらなくなってしまったのです。

でもこの遺品整理は、もういなくなった祖父の、今まで知らなかった一面を知る機会にもなり、それは祖父に関する記憶をよりとどめやすいものにしてくれました。

その人をよく知るということは、もう会えなくなってしまった後にも、その人をたぶん永遠に思い出せるように、記憶を引き出してくれる鍵がたくさんできるということ。

ただただ生産的に遺品を整理していたら、きっとこんな副次的な産物は得られなかったのではないかと今でも思っています。

出典:ベストエッセイ2012 日本文藝家協会編  光村図書
原出典:2012年 暮しの手帖 第55号

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