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揚げ饅頭 〜「ひとくちの甘能」酒井順子

揚げ饅頭と言えば、私は浅草の浅草寺の仲店の揚げ饅頭屋さんを思い浮かべます。目の前の屋台で揚げ立てのお饅頭を、紙袋に油の沁みが広がってくるのを焦りつつ、ふうふう言いながら食べる幸せは、確かに堪えられないものがあります。

どうして揚げ饅頭はこんなに美味しいのか。酒井順子さんは「ひとくちの甘能」の中でその理由について、こう考察しています。

糖分と脂肪分が渾然一体となった時に初めて生まれる、美味しさ。それは罪の美味しさです。それは、罪の美味しさです。快楽は、罪の無いところに決して発生しないと言いますが、美味しさもまた同じ。(中略)

実生活の上でその手の”罪悪であるからこそ発生する快楽”の虜になってしまっては、いずれ身を滅ぼします。だからこそ人は、「せめて味覚ぐらいは」と、揚げ饅頭のような蠱惑的なお菓子に、走るのかもしれない。

なるほど、糖分と脂肪分を一緒に摂取するということをよくよく考えてみると、確かに罪なレベルの行為と言えそうです。

さらに私はこの罪に類似な行為は、非日常な場面で特に行うことで多幸感が増すように思います。というか、日常の場面では、ある意味罪な行為は、その通り「罪である」という認識が生まれますので、そういった行為に走ることはなかなか難しいのではないかと思うのです。

非日常の、例えば旅先や、日頃あまり行ける場所ではない所、また普段は会えない人と一緒にいられる時などに、いつもは働いてしまう自制行為から少しだけ解放される。そんなシチュエーションだからこそ、罪の意識も薄れてくれるのではないでしょうか。
例えば、私も揚げ饅頭を家に持ち帰って食べたいかと言われれば、そうではありません。揚げ饅頭は、浅草寺の仲店のような賑わいのある和の雰囲気の場所で、熱々のものを食べるから美味しいのです。

よく考えてみたら、甘いものというのは、揚げ饅頭に限らず、多かれ少なかれカロリーの面で罪な食べ物であることに変わりはありません。
しかし、正直なところ、人は四六時中、緊張して張り詰めていることはできません。自分がほっとできる場所やほっとできる相手との時間、そういうものが必要だと思います。
「甘いもの」は、簡単にそういう場所に行けなかったり、そういう人にまだ会えてない、もしくは会えない環境にいたりする時に、簡単に手を伸ばしてひとくち頬張るだけで、ほっと自分を緊張から解き放ってくれる魔法の食べ物なのかもしれません。

酒井順子さんの「ひとくちの甘能」からの書評はこれでお終いですが、スイーツ談議はまたどこかで登場すると思います。新しい美味しさや懐かしい思い出のあるスイーツに日々出会える幸せが、皆さんのそばにもありますように。

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