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東京芸人の運命を変えたひとり 芸人・リッキーが大手芸能事務所社長になるまで 7

主催した若手ライブに有田哲平が大遅刻!激怒したブッチャーブラザーズは…

それでも海砂利水魚が「優秀賞」 その理由とは?

JCAの教え子にはダンディ坂野もいた。坂野は岡社長にくっついてサンミュージックに移籍し、実はサンミュージックのお笑い部門存続の危機を救うのだが、その話はもう少し後で。なお1992年には、JCAとは別の場所でオアシズ(大久保佳代子、光浦靖子)を独自にスカウトしている。

JCAで講師を始めた1992年、ブッチャーブラザーズ主催の月一回のライブ「ビタミン寄席」が始まった。ダイエーが経営していた神奈川県のショッパーズプラザ横須賀(現コースカベイサイドストアーズ)で半年間開催した後、千葉県のショッパーズプラザ新浦安(現イオン新浦安店)に場所を移して96年まで続き、さらに東京・なかの芸能小劇場へと会場を変えながら2020年まで続いた。

若手芸人の登竜門的ライブで、事務所の垣根を超えて様々な芸人が出演した。横須賀にはキャイ〜ンが、新浦安にはネプチューンや海砂利水魚(現くりぃむしちゅー。上田晋也、有田哲平)らが出演している。

ビタミン寄席出演者で岡社長が忘れられないのが、有田哲平の“怒った2人を爆笑させた”話術だ。岡社長が振り返る。

「新浦安の入り時間に、有田が大遅刻しました。僕もぶっちゃあも若くて今より厳しかったですからね。2人とも有田が来たら雷を落とす気で待ち構えていました。かなり遅れて到着した有田は、僕らを見るなり『理由を聞いて下さい!』と遅刻の原因を説明しだしたんです」

激怒しているブッチャーブラザーズ。芸人の大先輩でもある。そんな2人を前に、有田の必死のトークが始まる。

「『京葉線に乗っていたらかわいい女の子がいたんですよ。話しかけて、電話番号を聞こうと手帳を出したら新浦安に着いて、番号聞いてるうちにドアが閉まったんです。しょうがないから次の駅で降りて戻ろうと思ったら、乗っていたのが快速。めちゃくちゃ先の知らない駅まで連れて行かれて、戻る電車もなかなか来なくてこんな時間になりました』と。細かい言葉は忘れましたが、電車の本数が少なかったことや快速で乗り過ごしたら大変なことになることなど、“京葉線あるある”を交えながら有田が面白く語るものだから、僕もぶっちゃあも笑ってしまい『面白いから、もうええわ。それより出番や!すぐ出ろ』となったんです」

なんと有田、怒った2人を話術で笑わせたのだ。

 そしてステージに出た有田と上田は、ネタではなく直前に楽屋でウケたナンパ&遅刻の言い訳話をして爆笑を取った。

「遅刻話が客席にも大ウケだったんですね。僕らはその日の優秀賞に海砂利を選びました。文句を言う芸人もいましたよ。『遅刻したやん!』と。『一番面白かったからや!』と一蹴しましたけど(笑)」

これ以降、海砂利水魚は人力舎のライブ『バカ爆走!』にも出るようになる。

「有田とザキヤマことアンタッチャブル・山崎が出会い、やがて2人は師弟のような関係を築いて、山崎は有田にビシビシ鍛えられていったんです」

有田と山崎は若い頃、常に行動を共にしていた。有田は一緒にいる山崎に“無茶振りノック”を繰り返し、山崎は他の芸人が“お笑いモンスター”と恐れるような芸人に成長していく。現在の“ザキヤマ”が誕生した背景には、こんな流れもあったのだ。(続く)


1990年8月のブッチャーブラザーズ、仕事場での一枚

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