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東京芸人の運命を変えたひとり 芸人・リッキーが大手芸能事務所社長になるまで 1

昨年11月、老舗の大手芸能プロダクションで行われた人事が、芸能界で驚きと納得を持って迎えられた。
社長の座が創業一族から現役ベテラン芸人に譲られたのだ。大手プロで現役芸人が社長の座に就くのは異例中の異例。新社長はいったいどういう人物なのか?
その本人、就任から半年を迎えるサンミュージックプロダクション代表取締役社長、ブッチャーブラザーズ・リッキーこと岡博之氏に話を聞いた。
実は広い人脈を持ち、多くの芸人の運命を変えた人物だった。この話はあまり語られていない昭和〜平成の東京芸人の“裏面史”であり、貴重な証言である。

 京都撮影所にいた岡氏を東京へ誘った人気若手俳優

“大部屋”より下の“1000人部屋”にいたころ

岡社長は1981年に相方のぶっちゃーと「ブッチャーブラザーズ」を結成し、東京で芸人としてデビューした。実はその少し前まで東映京都撮影所でエキストラの仕事をしていたという。

出身地でもある京都から東京へ向かうきっかけを作ったのは、あの人気俳優だった。

「僕は高校を卒業した後、写真の専門学校を経て1978年に東映京都撮影所付属俳優養成所に入りました。ここで出会ったのが2期上の“山部先輩”こと相方のぶっちゃあです。ぶっちゃあは社交的で、俳優とも次々と仲良くなっていったんです。その一人が森田健作でした」

ぶっちゃあとの出会いが岡社長の人生を予想もしない方に導いていった。

「養成所2年目、京都撮影所にはいわゆる“大部屋”より下に“1000人部屋”というのがあって、そこに所属していました。その他大勢の通行人から斬られ役、死体役まで、端役の端役みたいな仕事が回ってきて、初めてエキストラとして出た映画が深作欣二監督の『赤穂城断絶』(1978年公開)です。森田も出演していて、京都撮影所に来ていました」

そして、ぶっちゃあの提案から運命の歯車が回りだす。

「ぶっちゃあは仲良くなった森田がホテルから撮影所までタクシーで通っていると聞いて、僕を指さし『こいつクラウンに乗ってますから、送迎しますよ』と切り出し、僕が撮影期間中の運転手を務めることになったんです。当時、生意気にもトヨタ・クラウンに乗っていたことが良い方に転がりました。バイトして返すという条件で親にお金を出してもらったんです(笑)」

東京で付き人やってみない?

半月後、森田の京都撮影所での出番が終わり東京に戻るというタイミングで、2人は森田本人から「現場マネージャーがいないんだ。東京に来て付き人やってみない?」と声をかけられた。

「僕はすぐに“いきます!”と答えました。ぶっちゃあも行くことを決め、3日後には2人で東京へ。しばらく森田の実家に住み、8畳の森田の部屋で3人で寝起きしてました」

こんな東京生活の始まりだったが、実は森田が2人を誘い上京させたことが、巡り巡って現在の芸能界に大きな影響を与えている。

もし森田の誘いに2人が「はい」と言わず京都にとどまっていたら、サンミュージックはいまのように売れっ子芸人を多数抱える事務所にはなっておらず、カンニング竹山やダンディ坂野が有名になることはなかっただろう。小島よしおやカズレーザーも世に出ていたかどうかわからない。

それどころか、他事務所の人気芸人、アンタッチャブルや東京03の運命も変わっていたかもしれないのだ。その理由は後述する。(続く)

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