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東京芸人の運命を変えたひとり 芸人・リッキーが大手芸能事務所社長になるまで 5

サンミュージック お笑い撤退

移籍先は人力舎!伝説のショーパブにいたヒロミを誘う

その後もサンミュージックに所属していた2人だったが、当時はネタ見せ番組が少なく、バラエティ番組も今のように多くなかった。営業の仕事も頻繁にあるわけではない。

一方で事務所の本業である音楽部門は、大人気の松田聖子に早見優が続き絶好調。お笑い部門とは比較にならないほど売り上げがあった。
結局、1984年にサンミュージックはお笑い部門を閉鎖。2人は再び事務所を辞めることになる。

フリーになった2人は、六本木にあった“伝説のショーパブ”「バナナパワー」に出演するようになった。

「ここで一緒にやっていたのが、南部虎弾さん(2024年没)もいた『ダチョウ倶楽部』です。南部さんはその後脱退して『電撃ネットワーク』を結成します。そしてヒロミ率いる『B21スペシャル』もいました。そのうち僕らは人力舎に声をかけてもらって所属することになり、ヒロミたちを人力舎に誘いました」。

B21はデビューからしばらく人力舎に所属した。岡社長は当時のヒロミの印象をこう語る。

「とっぽい感じで、先輩にもタメ口でね。でも話すと人懐っこくいいヤツで、敬語を使わなくても相手が認めちゃう雰囲気がありました。それにヒロミはこの頃からお笑い哲学を持っていて、ネタ作りの才能もありました。トークもうまいし、こりゃ上に行くな〜と思ったものです」

若い頃から才能あふれるヒロミが苦手だった仕事

しかし、難点もあったという。

「営業には向いてなかったんですよ。キャバレーの営業に行くと、お客さんにも生意気な口をきいて怒らせたり揉めたりして、僕らが尻拭いするというのが何度もありました。キャラ通りですね(笑)」

才能を買っていた岡社長は、思うところがありこんな助け舟を出す。

「僕は彼らに“営業臭さ”をつけない方がいいと思ったので、事務所の玉川善治社長(当時)に『テレビだけで売ることを考えて欲しい』とお願いしたんです。営業が無くなって、ヒロミはえらい感謝してくれました。僕はヒロミの才能を買っていたので、B21の舞台をプロデュースしたこともあります。会場は新宿にあったシアタートップス(現・角座)でした。実はこの時、僕は裏方の面白さを知ったんですね。そういう意味でも忘れられない存在です」

後のテレビ朝日お笑い番組キーマンもいた

バナナパワーではとあるお笑い好きアルバイト学生との出会いもあった。

「早稲田大学の板橋順二くんです。『そんないい大学にいるのに、こんなところに来て、卒業したら何をするの?』と聞いたら、『お笑いをやりたいです』と。その後、彼はテレビ朝日に入社し、『ザ・テレビ演芸』のADになったと喜びながら連絡をくれました。そこからテレ朝のバラエティ部門で大活躍し、今ではテレビ朝日ホールデングスの取締役総務局担当です。“板橋班”には『アメトーク!』など数々のヒット番組を手がけた加地倫三さんもいます」

この時期には、テレビでよく共演していたとんねるずとも距離が近づき、「なぜかぶっちゃあは石橋貴明と意気投合し、毎晩のように新宿・歌舞伎町のショーパブ『オレンジハウス』に一緒に行ってました。何をしていたかは、知らんことにしときます(笑)」(続く)

ブッチャーブラザーズ主催第一回「お笑いハウス」の記念写真。
後列サングラスの男性が後のダンカン

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