「ヒーロー」の定義についての持論
英雄論についてちゃんと研究したわけじゃないので、あくまでその手の作品を好む者としての持論でしかないんでしかないんですが、日頃から考えてたことなのでまとめてみます。
ヒーローをどう定義すべきか。
実はよく言われている善悪やモラルは関係ないんじゃないか。
ヒーローとは、劣勢や窮地や不可能、絶対的なもの等の事象に対し、形勢逆転しうる者、また果敢に挑まんとする者のことではないかと考えている。
この定義ならばスーパーヒーローは勿論、ダークヒーローやアンチヒーロー、現実に存在するヒーローと呼ばれる人々も説明が出来る。
スーパーヒーローは強大な悪やそれによって引き起こされた窮地に対して、解決する力を持っている者であり、
アンチヒーローは社会の普遍的な倫理・常識・価値観に抗う(挑まんとする)者、
スポーツ選手は常人には不可能とされる高度な身体能力やテクニックを駆使して特定の競技を行なう者、
消防士は主に火災という窮地から人々を救う者である。
「強きを挫き、弱きを助ける」と言い換えてもいいかもしれないが、ヒーローと呼ばれるに相応しき者、またヒロイック、ヒロイズムもこの定義に基づき説明が可能であるかなと。
そしてヒーロー的な存在や行為は人々の心に残りやすく、また動かしやすいため、英雄譚として古来より語り継がれ創造されてきた。
そうして培われてきたものを抽出し洗練させ特化させた存在がいわゆる「ヒーロー物」なのではいかと。
パワーや特殊技能や装備は劣勢や不可能を打開することが出来るものと想起させ、派手さや異質だったりするデザインも周囲から少し浮くことで常識的な世界(絶対的なもの)に抗わんとするようである。 ヒーロー物におけるスーパーヒーローはその存在自体が既にヒロイックなのだ。当たり前だけど。洗練特化してる分ね。
スーパーヒーローはその存在を以って、参上した時点でヒーロー性が発揮される。
だから「ポーズ」だったり「変身」だったり「出撃」だったりそこにかかる「音楽」が重要視される。
事件を解決したり、敵対するものを倒す以上にスーパーヒーローが現れるときにこそカタルシスがある。
だから「アベンジャーズ/エンドゲーム」の次々とヒーローが現れ集結する場面がテンションの瞬間最大風速を記録するかのように作ってるのか、そして文字通り死ぬほど感動したんだろうか。
本当に思ったことを徒然なるままに描いてしまったが、ツイッターで連投するのもなんか違うなと思ってサクッと書いてみました。
ニューフェイト評書き途中なのにね。前後しちまった。
でも昔から考えてたことなのでへたっぴながら一応まとめて記録出来て良かった。
特にオチはないですが、だからヒーローってカッコいいし、ヒーロー物でこれが好きこれが良いと感じる大前提にこの定義が深く関わってること多いので、ブログ初めてまだまだひよっこな段階で先にまとめておいて良かったかも。
でもMCUの話ばっかだな…他の映画の話もしたいんだが…それはまたいずれ。