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82年生まれ、キム・ジヨンを読んで

年末年始の休みで前から友人に勧められていた「82年生まれ、キム・ジヨン」をせっかく韓国旅行に行くので〜という軽い気持ちの飛行機の中で読んだ。(今年は読書感想文・映画感想文なんかも書いていきたい!(目標100個中1個))この本、かなり鬱になるので注意。韓国ではミリオンセラー、映画化もされている大ヒット本だそう。

内容は1982年生まれに1番多い名前の「キム・ジヨン」という女性主人公を中心として、本人とその母親や女性の友人など「ただ当たり前に女性であること」で生じる世の中の生きづらさをただただ淡々と、そしてとてもリアルに描かれている。

どの女性読者も「これは、まさに私の話です!」と力を込め、男性読者はなぜか小声になる、、と、本書の最後に後書きされていて、そして私も例外なく「これは、まさに私の話です!」と夫に伝え、帰りの飛行機でよんで!と力を込め本を渡し、日本に帰ってくる時には夫は声が小さくなっていた。(男性こそ読むべき本だね、、と。小声で)

女性であるというだけで、生きづらさがすごい。(反面、女性だから助かったことも事実としてあることはフェミニズムを語る上で忘れたくない)

母親であるというスティグマ

私はいつかは子供が欲しいよね、と思っている。遺伝子がつながっていないし喋りもしない犬がこんなにかわいいんだから、自分の子供が歩いてしゃべって、成長してなんてかわいいに決まってるよ〜人生2回目じゃん〜と思うけど、「母親」にはなりたくない。どうしよう。子供は欲しいけど、「妊婦」になりたくない。

男の人はずるい。母親にも妊婦にもならなくていい。

キム・ジヨンが国民学校に通っていた頃、担任の先生が日記帳に書いてくれた一行のメモをじっとみていた母が、いきなりこう言ったことがある。
「私も先生になりたかったんだよねえ」
お母さんというものはただもうお母さんだと思っていたキム・ジヨン氏は、お母さんが変なことを言っていると思って笑ってしまった。
「それなのに、どうして先生にならなかったの?」

私の母親の夢は美容師になることだった。若い頃のママはすごく美人だしおしゃれで、愛嬌もあるのできっと地元では人気の美容師になれたと思う。「女の子は早く就職してなさい。安定した産休の取れる大きな企業に勤めなさい」という祖父母の教育方針のもと、高卒で地元のそれなりに大きな企業に就職した。それでも諦められなかった美容師の夢を、ママは働きながら夜間学校に通って免許をとり、数年勤めた会社を辞めて夢の美容師になった。ママ、すごい!

その後1年も経たないうちに父と結婚し、「女は家に嫁ぐもの。」という長男の長男の長男の古い家系の義父母の方針のもと、美容師をやめてしまう。その後すぐに兄が生まれ、私が生まれ、妹が生まれた。

母親は私の人生のどの節目でも、「女だからという理由で諦めることなんて何も必要ないからね」「結婚しても子供を産んでも絶対に専業主婦にはならないでね」「あんたはやりたいことを好きにやって生きなさい」と耳タコのように私に伝えていた。

私が高校3年生、地元を離れて東京の大学に進学を決めた時、ママは「私も大学行きたかったな〜。」と言った。「私は地元から出たことも、一人暮らしした事もないの」
母親は母親なだっけだと思っていた私は、変なのと思って笑った。でも今ふと思うと、ママは自分の人生を後悔しているんだろうか。私たち兄妹と父親と、古い家系が母親中心にずっしりと重く母親の裾を踏んで離さない。そんなことを考えて少し悲しくなった。

結婚とは、何を目指してどこへ向かうのか

結婚とは、なんなんだろうか。本書の中でも、キム・ジヨン氏は気の合うチョン・デヒョン氏と結婚をし、子供を産む。仕事も自分のやりたいことがある中で、結婚したら当然子供を持つものだと思っている親族に「いつ子供を持つのか?」「まだできないのか?」とプレッシャーをかけられるが、仕事をしながら両立できないだろうという見積もりに申し訳なさを感じる。

キム・ジヨンしは出産後も仕事を続けられるのかという不安や、子供が生まれる前から預け先を考えることへの罪悪感について、夫に一生懸命説明した。夫は冷静に妻の話を聞き、適切なタイミングで頷いた。
「でもさ、ジヨン、失うもののことばかり考えないで、得るものについて考えてごらんよ。親になることがどんなに意味のある、感動的なことかをさ。それに、本当に預け先がなくて、最悪、君が会社を辞めることになったとしても心配しないで。僕が責任を持つから。君にお金を稼いでこいなんて言わないから。」
「それで、あなたが失うものは何なの?」
「え?」
「失うもののことばかり考えるなって言うけど、私は今の若さも、健康も、職場や同僚や友達っていう社会的ネットワークも、今までの計画も、未来も、全部失うかもしれないんだよ。」

結婚したのにあまり変わらないね、と言われることがよくある。「新婚なのに、海外出張ばかり行って大丈夫なの?」「結婚したのに、こんな遅い時間まで飲んでいて大丈夫なの?」「あいつは新婚だから、海外赴任候補からは外そう」と。私たちは子供がいないし、特に何も悪いことはしていないはずなのに、なぜ結婚しただけで遅い時間まで飲みに歩くことに、一生懸命に働くことに罪悪感を持つ必要があるのだろう?

結婚する前は二人の問題で済んでいた色々が、結婚後は“社会”が新婚の女はこうあるべき、と介入してくることが増えて許さない。どうやら結婚というのは、二人でいることに社会的な責任を法律上でも負います、という契約だったらしい。では、結婚したことで追うべき責任と失った苗字と、失った自由に対して、私が得た権利は、、一体なんだったのだろうか?幸せな恋愛の先にはみな、結婚という幸せなゴールに向かっている、若い男女はみんなそうである。そうあるべきである。という社会的総意のなかで大好きな人からプロポーズを受けて、冷静に得るものと失うものを立ち止まって冷静に天秤にかけて考えられる人は、どのくらいいるのだろう?プロポーズをする側の人も、どう考えているのだろう?そこまで冷静に考えているんだろうか?


私は結婚してもしなくてもきっとこの人の隣にずっといるだろうな、と思ったから結婚したし、ただそれだけだった。結婚前から何年か同棲していたし、2人の愛犬もいたので結婚して変わったのは本当に苗字だけだと思っていた。結婚して、変わったのは私たちではなく、社会からの目だったと気づいたのは、結婚してすぐだった。

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