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本格ファンタジーは定義できるが、ジャンルとしては成立していない


『巨乳ファンタジー』シリーズを14年間つくりつづけている企画者&シナリオライターとして、そして24巻まで刊行中の『高1ですが異世界で城主はじめました』の作者として、ごく最近(たぶん2020年代に入ってから)ごく一部のTwitter界隈でごく一部の人たちによって本格ファンタジーと名指されているものが何なのか、どういう位置づけを持つものなのか、書いてみたいと思う。この記事は、壮大な本格ファンタジー作品のようにクソ長くなるだろう(笑)。

※すでに4万字を超えてます(笑)。

■ラノベとなろう系の定義

まず前提として、ラノベとなろう系小説について定義しておく。

・キャラクターの反応がアニメやマンガの表現ベース(たとえば、殴ったら飛んでいって星になる)
・思春期的ハートの持ち主(建前上、思春期の青少年)をメインターゲットとするエンターテインメント小説(そのため主人公は高校生が多く、また読者アピールのために表紙はマンガアニメ系になる)
・基本的に主人公が次第に活躍していく「実力と活躍の漸増」に対して感情移入する

上記3つを備えたものをライトノベルと呼びたい。

・キャラクターの反応がアニメやマンガの表現ベース(たとえば、殴ったら飛んでいって星になる)
・現実社会では夢を叶えることが難しいという壁に突き当たった、思春期的ハートを持った会社員をメインターゲットとするエンターテインメント小説(そのため主人公はだいたい30代以上。読者アピールのために表紙はマンガアニメ系になる)
・基本的に主人公の実力の漸増は前提されない

上記3つを備えたものをなろう系小説と呼びたい。キャラクターの反応がアニメやマンガの表現ベースではなく、リアルベース(たとえば殴っても星にならない)なのが、大衆小説や純文学小説である。そして小説とは、ラノベ、なろう系、大衆小説、純文学を含んだ総称として扱う。すべて近代小説の系譜を引き継ぐものとして考える。童話は近代小説ではないので、小説には含まれない。穴があると思うが、ひとまずこうしておく。

■ファンタジーの定義

次の前提として、以下3つの要素をすべて満たすものを小説の世界のファンタジーと考える。

・資本主義成立以前の世界がメイン、もしくは資本主義成立以前の要素(騎士や魔術師や魔物)がメイン
・思春期的ハートの持ち主が楽しめるように配慮されている
・読者を楽しませようとするエンタメ小説である

ちょっと解説する。

「資本主義成立以前の世界がメイン」とは、「古代や中世、近世の世界、あるいは古代~近世までの時代をモデルにした世界がメイン」ということである。資本主義が成立すると近代国家が生まれてしまって、騎士も完全に没落して消え失せてしまう。資本主義の成立と近代国家の成立はほぼ一致している。資本主義成立=近代国家成立前の時代背景のものが、ファンタジーの舞台として選ばれている。

ただ、上の条件だけだと、現代を舞台にしたファンタジーが洩れることになる。そこで追加したのが「資本主義成立以前の要素」である。主に古代や中世の世界で存在したもの、あるいは存在すると思われたもの、つまり、騎士や魔術師や魔物である。騎士も魔術師も魔物も、資本主義=近代国家成立以前の世界に特徴的な存在としてあったものである。現代が舞台であっても、魔術師がメインになるのならファンタジー小説だと言える。

ちなみにローベル柊子准教授の論文「日本におけるファンタジージャンルの展開と少女マンガ」にはこのように注記で記されている。

Anne Besson 〔2007〕La Fantasy 50 Questions, Paris, Editions Klincksieck, p. 155. ベッソンはファンタジーの時代設定がたいていの場合、産業や科学技術が生まれる前の時代に設定され、それゆえに魔法や怪物、そして選ばれし人間の力が際立つと指摘している。

ローベル柊子「日本におけるファンタジージャンルの展開と少女マンガ」

産業や科学技術が生まれる前の時代」というのは、筆者の言う「資本主義成立以前=近代国家成立以前の世界」とほぼ同義である。

解説をつづけよう。

思春期的ハートの持ち主」とは、思春期の少年少女や、思春期の頃の感性を大人になってもなお持っている人たちのことである。ファンタジー小説と言われるものは、主人公を高校生(思春期の少年少女。文庫ラノベの場合)にしたり、もう大人なんだけど異性への距離や態度が思春期的な人物(なろう系の場合)に据えたりして、対象となる読者が物語に入りやすいような配慮を行っている。

ともあれ、

・資本主義成立以前の世界がメイン、もしくは資本主義成立以前の要素(騎士や魔術師や魔物)がメイン
・思春期的ハートの持ち主が楽しめるように配慮されている
・読者を楽しませようとするエンタメ小説である

上記3つがともに満たされるものを小説のファンタジー、別の言い方をするとファンタジー小説とひとまず考えておく。小説のファンタジー(ファンタジー小説)は純文学作品ではなくエンタメ小説である。

■幻想文学

ファンタジー小説に類似したもの、近いもので、幻想文学というものがある。英語ではfantasy literature。ちなみにファンタジー小説を英語で言うと、fantasy novel。似ている。現代での実在/非実在を問わず、古代や中世で存在すると思われたものへの空想ファンタジー的空想と言うのなら、ファンタジー小説も幻想文学もともに、ファンタジー的空想を利用する。ただ、両者は同じではない。

幻想文学の実例を並べると、フーケー『水妖記』(1811年)、メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』(1818年)、バイロン/ポリドリ『吸血鬼』(1819年)、プーシキン『スペードの女王』(1834年)、バルザック『セラフィタ』(1835年)――。19世紀にロマン主義の中で発生した、超自然や怪奇を扱う物語群である。誕生した時代が重要である。

18世紀は理性の時代であったが、19世紀は感性の時代となった。その中で、キリスト教や理性が抑え込んできたキリスト教以前のもの古代的なもの怪奇的なものが、まるで抑圧されたものの回帰のように主題として小説の形で蘇ったものが、幻想文学である。よって幻想文学とは、理性とは逆ベクトルの古代的なものや怪奇的なものを主題として扱うことによって、キリスト教的価値観と理性とに対する揺さぶりを行う物語として定義することができる。19世紀末に始まった精神分析に引きつけて言うなら、キリスト教的価値観や理性という意識が抑圧してきた、異教的・古代的・魔的な無意識の世界が意識に対抗しうるものとして出現する世界として見ることができる。ある意味、理性という意識の世界に対する形で、無意識の世界を外にあるものとして表現した世界と言える。「理性による抑圧に対する反発」と「古代的・異教的なものの回帰」を主題とする文学と言ってもいいかもしれない。神は死んだ、そして異教の神や魔の世界が蘇った、みたいな感じだろうか。

ファンタジー小説の場合、あくまでもエンタメであり読者を楽しませることを主眼としている。だが、幻想文学はエンタメではない。幻想文学はあくまでも文学である。よってファンタジー小説には含めることができない。

日本版Wikipediaでは、近代ファンタジー(20世紀前半に成立した、ファンタジー小説と呼びうるもの)が幻想文学のサブジャンルであると記しているが、ならば、大衆小説はすべて文学(芸術としての文学)のサブジャンルという間抜けなことになる。筆者はその考えは採らない。大衆小説が何かのサブジャンルであるとすれば、それは「小説」のサブジャンルである。芸術としての文学ではない。芸術の下位に置きたがるのはしょうもないイデオロギーによる操作である。ともあれ、今回の対象は小説のファンタジー、つまりエンタメ小説なので、幻想文学については考えない。

■児童文学と精通/初潮

ファンタジー小説に近接するものとして、児童文学がある。児童文学は近代以前には存在していない。簡単に歴史を繙くとこうである。近代以前の世界には、そもそも「児童」という区分がなかった。近代国家が成立して学校教育が普及し、それによって「児童という区分」が生まれた。その後誕生したのが、児童文学なのである。児童文学は近代国家(近代)の産物なのだ。児童は、近代教育の開始によって生み出されたのだ。

近代国家が始まる前は国民全員に対する教育はなく、児童に該当する者たちは大人に混じって大人の遊びをしていた。服装も子供服というのはなかった。そもそも子供服という枠組み自体がなかった。子供は大人の服を小さくしたものを着ていた。子供向けという市場は、近代国家が生まれて資本主義が拡充していく中で、ずいぶん後になって見いだされた新しいマーケットである。児童文学が中世の頃から存在するかのように思い込むのは、間違いである。

繰り返すが、児童文学は、近代国家が生まれてから誕生した。つまり、近代の産物である。児童文学が成立していく段階で、児童文学以前に流布していた童話や昔話が組み込まれたのだ。組み込まれる前の童話や昔話にファンタジー的空想があり、それも児童文学に組み込まれた。結果、ファンタジーというと子供向けという社会的通念ができあがってしまった。ファンタジー小説に対して「大人向けである」という断り書きやCM的アピールをつけるのは、「ファンタジーは子供向け」という社会的イメージがあったからなのだが、勘違いされている部分が多い。児童文学についても定義しておいた方がいいだろう。

児童とみなされる年齢は、12歳までとするものや、ティーンエイジャーを含むものがあるが、児童とは、まだ肉体が性的なオスや性的なメスになっていない状態の子供たち、すなわち性的な問題をまだ抱えていない子供たちと考えたい。性的に大人になっていない子供たちをターゲットにした物語が、児童文学である。

ちなみに日本人女子の場合、初潮年齢は1900年以前では15~6歳頃で、1930年代から若年化が進行。1950年代には12歳になった。現在では11歳で6割が初潮を迎える。参考までに英国人女子の場合、過半数が初潮を迎えるのは12~13歳で、日本人女子より遅い。

日本人男子の場合、精通年齢は1940年代では13~14歳頃だった。1960年代に入って12歳と若年化が進行したが、70年代から逆に遅延化が始まり、現時点では15~6歳になっている。

12歳というのは、恐らく1960年代の頃の感覚から生まれたものだろう。今の初潮年齢と精通年齢で判断するなら、児童文学とは、女子は10歳まで、男子は14歳までを対象としたものということになりそうである。なかなか微妙である。

児童文学とファンタジー小説の違いは、対象年齢である。児童文学は、性的な目覚めがまだの少年少女たちがターゲットである。対して、ファンタジー小説は、基本的に思春期の少年少女や思春期的ハートを持つ大人たちをメインの読者とするので、性的に大人になりつつある少年少女や性的に大人になった者たちがターゲットである。よって、児童文学の中にファンタジー小説は含まれない。日本版Wikipediaでもそのことは示唆されている。児童文学の範囲に収まり切らないものとしてファンタジー小説が生まれたと記されているのだ。

Wikipediaでは近代ファンタジーという呼び方をされているが、20世紀前半に生まれたファンタジー小説とほぼ一致する。特徴は子供向けではない、つまり、性的に大人へと向かいはじめていない読者が対象ではなく性的な目覚めが始まったか経験した読者が対象ということである。

以上の前提からスタートすると、『ハリー・ポッター』シリーズは、児童文学ではなくファンタジー小説として捉えられる。『ナルニア国物語』については、(ファンタジー的空想の)児童文学ということになる。そしてこの位置づけは、イギリス本国での「ナルニアは子供が読むもの、でも、ハリー・ポッターは大人も読むもの」というポジショニングとも一致する。

少し脱線するが、先に古代や中世で存在すると思われたもの(魔法使いや魔物やしゃべる動物)への空想ファンタジー的空想と言った。ファンタジー的空想をファンタジーの条件にした場合、ゲームも映画も幻想文学も童話もファンタジー小説もすべてファンタジーとなって、範囲が広がりすぎる。本格ファンタジーとは何ぞや?を論じようとしても、ゲームも映画も童話も幻想文学も含んでしまうため、議論が難しくなる。ファンタジー的空想をファンタジーの条件にすると厄介な問題が起きてしまうのだ。かといって「ファンタジー小説とは、ファンタジー的空想を駆使する小説である」と定義しても、リアル中世的な異世界で魔物が出てこない世界や擬似中国的な近世的世界で魔法が出てこない小説(酒見賢一『後宮小説』)はファンタジー小説じゃないのかという問題が起きて、またややこしくなる。なので、ファンタジー的空想は定義のツールとして使わない。考える対象は、近代小説の系譜を引き継ぐエンタメ小説に限定したい。

■エンタメは心の受け皿

さらに大きな前提として。

エンタメ作品は、すべてそれを楽しむ人たちの心の受け皿である。つまり、ある一定の人たちの不安や苦悩や願望を受け止めてくれる心の受け皿として機能している。

ぼくがいる商業エロゲー業界でいえば、1999年頃からゼロ年代前半にかけて一世を風靡した、泣きゲーというのがあった。形式は、画面をクリックして物語を読み進めるノベルゲーム。ベースは純愛ゲームだが、ヒロインとの交流のプロセスでヒロインの深い心の傷に触れて涙することになる。ヒロインのつらさ、ヒロインの儚さ、ヒロインの無力さを深く知って、プレイヤーがシンクロして号泣する。そういうゲームだった。

泣きゲーに共感したのは、いわゆるロスジェネ世代、1970~84年生まれの人たちだった。1975~85年生まれのY世代もほぼ含まれている。

ロスジェネ世代やY世代は、前のバブル世代と違ってバブルを知らずに育っている。彼らが就職する時期にはバブルは終了して日本経済は急転落。就職活動で辛酸を舐めた。

就職活動とは、自分という学生的存在が社会に対して受け入れられていく儀式である。だが、その儀式において、「社会から受け入れられてもらえない」という仕打ちを味わうことになったのだ。「社会から受け入れてもらえなかった」というこの事実が、無力感と無意味感と無価値感を――自分は社会の中で無力で無価値で、この社会にいても意味がないんだという感覚を――ロスジェネ世代やY世代の人たちに抱かせることになる。

泣きゲーにおけるヒロインのつらい境遇は、プレイヤーの無力感と無価値感と無意味感をヒロインの不幸という形で表現したものだった。結果、プレイヤーは不幸なヒロインに触れることによって、「自分もヒロインと同じように無力で無意味だ」と共感することができた。同時に、「こんな無意味で無価値で無力なぼくでも、このヒロインにとっては意味があって価値があって力になれるんだ」と感じることもできた。泣きゲーは、社会から拒絶されたロスジェネ世代やY世代の、非常に大きな心の受け皿だったのである。

■心の受け皿は時代や社会と結びついている

あらゆるエンタメ作品や文学作品は、誰かの心の受け皿となる。そのうち、最も大きなものは、社会が求める心の受け皿となる。それを人は大ヒット作と言う。その一つが、2001年4月に発売されて300万部を超えるベストセラーとなった『世界の中心で、愛をさけぶ』だ。

もし覚えていたら、ラストシーンを思い出してほしい。死への行進を始めるヒロインを抱き締めながら、自分に何もできないこと、自分の無力さに引き裂かれそうになりながら、「助けてください、助けてください、助けてください!」と空港の待合室で叫ぶ主人公――。主人公が涙しながら空港で感じる無力さは、社会に拒絶されて無力感を味わわされたロスジェネ世代やY世代が共有するものだった。

心の受け皿は、時代や社会と結びついているその時代においてその社会の最も大きな心の受け皿となったものが、大ヒットとなるのである。ヒット作も流行もまた同じである。流行とは、その時代にその社会において非常に大きな心の受け皿になったもののことを言うのだ。

■心の受け皿を変化させるのは、経済変動と社会変化

後述するが、人々が心の受け皿として求めるものを変化させる原因は、社会変動と経済変動である。泣きゲーという心の受け皿を用意させたものは、バブル崩壊という経済変動と、それに伴う新卒生に対する社会の拒絶という社会の変化だった。

■日本での西洋風異世界ファンタジーの受容

では、本格ファンタジーに入っていこう。まずは、日本において西洋風の異世界ファンタジーがどのように輸入されて受容されていったのか、見ていこう。この辺りの歴史的流れについて、ローベル柊子氏の「日本におけるファンタジージャンルの展開と少女マンガ」という論文が見事に紹介してくれている。ローベル柊子氏は次のように整理している。

先にも述べたように一般的にジャンルとしてのファンタジーが日本で確立、普及したのは1970年代以降のことと言われている。1970年から1974年にかけてハワードの『英雄コナン』シリーズ、1972年から1976年にかけてトールキンの『指輪物語』、1976年から1977年の間にル=グウィンの『ゲド戦記』の「影との戦い」、「こわれた腕環」、「さいはての島へ」と多くの優れたファンタジー作品が日本語に翻訳された。これらが欧米ファンタジーのイメージを作り、影響を与えた。異世界の創造と中世風の世界観を特徴とする、いわゆる「剣と魔法もの」である。
 1979年2月には早川書房より海外ファンタジーを対象としたサブレーベル「ハヤカワ文庫FT」(FTはfantasyの略)が創設される。そして同年9月には日本の作家である栗本薫(1953-2009)による『英雄コナン』的な古代を舞台にしたヒロイック・ファンタジー小説『グイン・サーガ』シリーズ(1979-2009)の第一巻『豹頭の仮面』が刊行される。80年代に入り、ハヤカワ文庫FTからは、レイモンド・E・フィースト(1945-)の『リフトウォー』シリーズ(1982-2013)、ディヴィッド・エディングス(1931-2009)の『ベルガリアード物語』シリーズ(1982-84)、マリオン・ジマー・ブラッドリー(1930-99)の『アヴァロンの霧』シリーズ(1988-89)など海外の人気ハイ・ファンタジー作品がコンスタントに出版されていく。こうして一通りの刺激と影響を受け、80年代後半から日本のファンタジー作品が続々と世に出ていくようになる。1985年には荒俣宏(1947-)がベストセラーとなる『帝都物語』を発表し、1988年には映画化される。

ローベル柊子「日本におけるファンタジージャンルの展開と少女マンガ」

非常に興味深い整理である。ただ、国産のヒロイックファンタジーの発展については、少々解像度が低い。ヒロイックファンタジーについては、栗本薫氏がいきなり登場してきたわけではないようだ。先駆者が存在する。

非常に興味深い。

さらに補足になるが、80年代にコンピューターRPG『ウルティマ』(1981年)が、そして1985年にはTRPG『ダンジョン&ドラゴンズ』の日本語版が発売されている。そしてこれらの状況の中で、ゲームにおける国産ファンタジーの発展も始まる。

 一方、1980年代後半から1990年代にかけて「ファンタジー」は文学の垣根を越えて多様化していく。その代表的な現象としてRPG(ロール・プレイング・ゲーム)の分野でファンタジーが発展していったことが挙げられる。1986年にはファミリーコンピュータ用ソフトとして『ドラゴンクエスト』の第一作がエニックスより発売され、その翌年にはスクウェアより『ファイナルファンタジー』の第一作が売り出される。

ローベル柊子「日本におけるファンタジージャンルの展開と少女マンガ」

この流れの中で、あの有名な作品がやってくるのだ。

 1988年にはテーブルトークRPG『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(1974)の誌上リプレイをもとにした水野良(1963-)の『ロードス島戦記』が角川スニーカー文庫より出版される。アニメ、そしてゲームソフトへとメディアミックスが行われ高い人気を博した本作だが、その魅力の一つとして決して無視できないのが小説の表紙のみならず挿絵としてもイラストを提供した出渕裕(1958-)のキャラクターデザインである。
 マンガやアニメ風のイラストを多用した小説ということで、『ロードス島戦記』は文芸作品というよりはライトノベルのファンタジーとして認知されている。ライトノベルは、中高生を対象とした娯楽小説で、イラストの多用の他、わかりやすいキャラクター性を持った登場人物、マンガのようにセリフを中心とした会話シーンが多いといった特徴がある。同時期に人気作品としてシリーズ化していくファンタジー小説にはひかわ玲子(1958-)の『女戦士エフェラ&ジリオラ』(1989-95)、前田珠子(1965-)の『破妖の剣』(1989-)、神坂一(1964-)の『スレイヤーズ』(1990-)などライトノベル的な作品が多い。『ロードス島戦記』の例にもれず、これらのライトノベル・ファンタジーの多くはマンガ、アニメへとメディアミックスが行われている。

ローベル柊子「日本におけるファンタジージャンルの展開と少女マンガ」

以上を踏まえて日本でのファンタジー小説の受容と発展を整理すると、こうなるだろう。

1970年代、『英雄コナン』シリーズ、『指輪物語』、『ゲド戦記』などの欧米のファンタジー小説が日本で翻訳出版される。同時に国産ファンタジーも少しずつ展開される。

1979年、ファンタジー小説の浸透・拡大を象徴するように、海外ファンタジーを対象としたサブレーベル「ハヤカワ文庫FT」が創設
 さらに、本格的な国産のヒロイックファンタジー、栗本薫『グイン・サーガ』シリーズが開始

・80年代前半、コンピューターRPGとTRPGが日本に流入してマニアの間で広がる

80年代後半国産のファンタジー作品が、ゲームと小説で続々と展開される
 ゲーム……1986年、『ドラゴンクエスト』発売。
 小説……1988年、『ロードス島戦記』発売、ファンタジー小説の展開が本格化

70年代の輸入&受容を経て、80年代後半から国産のファンタジーが小説とゲーム双方において隆盛する姿が見て取れる。

■本格ファンタジー作品と世界志向

では、いよいよ本格的に本格ファンタジーの話に入ろう。本格ファンタジーというジャンルが小説の世界においてすでに確固として成立しているのかどうかについては疑問があるが、ごく一部で騒がれている本格ファンタジーとは何なのか、本格ファンタジーと名指されている作品はどういう位置づけを持つものなのか、記してみたい。

小説の世界において本格ファンタジーの代表作として筆頭に挙げられるのは、トールキンの『指輪物語』だろう。

では、こう言っていいのだろうか。本格ファンタジー小説とは『指輪物語』みたいなものである――。いや、それは説明になっていない。物書きのくせに説明を放棄している。

では、こう言うのはどうか。本格ファンタジー小説とは、ある種の神話である――。
それもやはり充分な説明にはなっていない。というか、2020年代にそれを言うのは、ボキャ貧である。

では、こう言うのは? 本格ファンタジー小説は叙事詩みたいなものである――。
本格ファンタジーと名指されるものには叙事詩的な部分があったりするが、充分ではない。叙事詩という形容も神話という形容も、「壮大」(規模感)の別言でしかない。

説明のヒントは、『女戦士エフェラ&ジリオラ』などの代表作をはじめとして、80年代終盤からファンタジーを引っ張った一人、ひかわ玲子氏の『ひかわ玲子のファンタジー私説』(東京書籍、1999年)にある。

この中で、トールキンの意図が記されている。

もともと、彼は『指輪物語』を書いた動機のひとつに、死語であるルーン語が使われている世界を描いてみたいと思った、というのをあげています。彼は、エルフが歌うルーン語の詩も書いていて、さらにこの『指輪物語』の背後には、この架空の世界を支える架空の神話体系、歴史として、『シルマリオン』という話も用意されていました。

『ひかわ玲子のファンタジー私説』42ページ

重要なのは「~世界を描いてみたい」の箇所である。つまり、書き手の意識は、世界を描くことに向かっているということだ。それは具体的にどういうことだったのか。

■本格ファンタジー作品=ガチの世界創造

ひかわ玲子氏はこう続けている。

『指輪物語』はアメリカで大ヒットしてベストセラーになった後、エピック・(叙事詩)ファンタジー、または、アダルト・ファンタジーと呼ばれるファンタジーのブームを巻き起こしました。多くのファンタジー作家が生まれ、『指輪物語』と同じように、まず、設定を整え、大地を築き、文明・文化、地理、風俗、歴史、そして世界を作って、ファンタジーの物語を創作しました。


設定を整え、大地を築き、文明・文化、地理、風俗、歴史、そして世界を作って」――。

まさに、いま人々が思い描く「本格ファンタジー小説」である。ところで、「アダルトと銘打たれたのは、「ファンタジーは子供向け」という当時の風潮に対して「子供向けのお話ではない」というアピールと断り書きのためだろう。たとえばイギリス本国では、C・S・ルイスの『ナルニア国物語』は子供向けという位置づけである。

上記の引用から多くの人は、キリスト教の唯一神が『聖書』において天地創造を行ったくだりを思い出すかもしれない。引用を見る限り、世界の創造が中心にある。キリスト教の唯一神ばりのガチの世界創造がある。どういう世界を完全に近い形でつくりだすのかというのがある。世界をインフラからがっつりつくっちゃうという感じで、世界創造のガチ度が半端ない。ガチガチの世界創造ってほぼ天地創造で、もろキリスト教的だね。ちなみに仏教に創世神話はないことになってる。

ともあれ、世界をがっつり創造するというキリスト教的な性格があるのは、本格ファンタジーと名指されるものの大きな特徴の一つ、大きな識別子として考えていいだろう。

■異世界ファンタジー=本格ファンタジー?

ところで興味深いのは、1999年の時点では、本格ファンタジーという言葉が使われていないということだ。この説明の後に、ひかわ玲子氏はこう続けている。

エピック・ファンタジー、日本でいうところの異世界のファンタジーの興隆です。

1999年の時点では、Twitterの一部界隈で言う本格ファンタジーは、本格ファンタジーではなく、エピック・ファンタジー、異世界ファンタジーというジャンルのものとして認識されていた。本格ファンタジーというジャンルは当時はなかったと見て正しいだろう。『指輪物語』に対して、しっかりしている、しっかり世界を創造しているという認識はあっても、本格ファンタジーというラベルをつけての認識はされていなかったのだろう。本格ファンタジーは、当時、売り文句としてのみ存在する言葉だったに違いない。早くも1960年代には売り文句として存在した証拠が示されている。


1968年に売り文句として確認された「本格ファンタジー」という言葉は、今もなお売り文句として続いている。世間的には、本格ファンタジーはキャンペーン的に存在する言葉だろう。後述するが、一部のTwitter界隈でジャンルとして提唱されている本格ファンタジーという枠組みは、現時点でも成立していない。つまり、本格ファンタジーというジャンルは、過去にも現時点にも存在していない。存在しているのは、売り文句としての本格ファンタジーであり、あとはTwitter界隈でごく最近ごく少数において「個人個人の受け手が本格ファンタジーと言いうる小説」として使われている「本格ファンタジー」(正確に言うなら本格ファンタジー小説)というあやふやな作品群である。

ちなみに本格ファンタジーについてのツイート主はほぼ全員アマチュアの方で、プロの方はほぼ皆無の状態である。プロの方は本格ファンタジー論争に対してほとんど興味を持っていない

■西洋風異世界ファンタジーと和製ファンタジー

ともあれ、今、一部のTwitter界隈で本格ファンタジー(内容的に正確には本格ファンタジー小説)と称されるものは、当時は異世界ファンタジーだったのだ。正確に言うと、西洋風の異世界ファンタジーということになる。そしてそれに対置する形で、和製ファンタジーという言葉が出てくる。再び『ひかわ玲子のファンタジー私説』に戻ろう。

全51巻の代表作『破妖の剣』をはじめとして80年代終盤からコバルト文庫で活躍した、日本におけるファンタジーの立役者の一人、前田珠子氏との対話でこういうくだりがある。

ひかわ 前田さんとは、和製ファンタジーについて話してみたいと思っているんですけれど。私が言っている和製ファンタジーという言葉のイメージはね、西洋風のファンタジーを日本風にアレンジしたものとでも言うのかな……。
 前田さんと私って、和製ファンタジーを書いている最先鋒になるんじゃないかなって思うんです。

西洋風のファンタジー(輸入されたファンタジー小説)を日本風にアレンジしたものが、和製ファンタジーである。この和製ファンタジーの系譜に、今のラノベのファンタジーやなろう系ファンタジーがある。ラノベのファンタジーやなろう系ファンタジーは、一部のTwitter界隈では本格ファンタジーではないものと見なされているので、便宜的に非本格ファンタジーと呼ぶ手もあるが、そうすると本格ファンタジー作品の方が本物で非本格ファンタジーがまがい物みたいな印象が受け手の中で発生して「本格ファンタジー/非本格ファンタジー」という、望まぬ優劣関係が発生してしまうので、「ラノベ・なろう系ファンタジー」と呼びたい。

蛇足になるが――しかも小難しい話になるが――本格/非本格という区分けを見ると、自分はマルティン・ハイデガーの本来性/非本来性という区別を思い出してしまう。思い切り意訳すると、本来性とは、自らのあり方・生き方を積極的に引き受けて人間本来の姿に向かっていくこと。非本来性とは、流されて本来の姿から遠ざかり、自分を見失うことである。ハイデガーは『存在と時間』の中でことさら非本来性を貶めているわけではないが、受け手側では本来性が上に序列化されてしまう。

本格/非本格という言葉を聞いたり読んだりすると、受け手側は「非~」とされている方を非本質的として否定的に捉え、無意識に序列化を行ってしまう。つまり、本格の方が上で、非本格の方が下になってしまうのだ。本格と非本格に序列はないと考えている書き手からすれば、「待って!」の状態が発生してしまうのである。本格/変格という区別でも、やはり変格の方が異端的なポジションとして受け手側にイメージされ、本格が序列として上に来てしまう。「本格/非本格」という区別や「本格/変格」という区別には、このように、書き手が望まなくとも受け手の方で勝手に序列が生まれて、書き手が上とは思っていない方が上の序列として位置づけられるという不本意な効果が発生してしまう。言葉には、そういうパフォーマティブな効果があるのだ。そしてプロの書き手はパフォーマティブな効果に無自覚ではいられない。ともあれ、不本意な序列化を避けるためにも、本格/非本格という区別ではなく、本格/ラノベ・なろう系という区別をしたい。

長くなったので、まとめの形で話を戻す。

・西洋風の異世界ファンタジーに対置する形で和製ファンタジーが生まれた
・和製ファンタジーの系譜に、今のラノベのファンタジーやなろう系のファンタジーがある
・ラノベのファンタジーやなろう系のファンタジーは、「ラノベ・なろう系ファンタジー」と呼びたい

■ラノベ・なろう系ファンタジーと本格ファンタジーの違い

ところで、ひかわ氏と前田氏は和製ファンタジー――日本風にアレンジしたファンタジーを書いているが、同じタイプというわけではない。両者の違いに、本格ファンタジー小説とラノベ・なろう系ファンタジーの違いが示されている。

前田 私の場合、舞台となる世界の設定よりも先にキャラクターが決まるタイプなんですよ。で、だからそれ、キャラクターからいくんだっていうのでちょっと納得した部分があるんだけど……。
ひかわ そうか、私とは逆なんだ。私の場合、意識的にこういう世界なんだというふうに決め込んでから書き始める。 

前田氏とひかわ氏の違いは、恐らくそのままラノベ・なろう系ファンタジーと本格ファンタジーの違いに当てはまる。

キャラから入るファンタジー。キャラが主眼のファンタジー
すなわらラノベ・なろう系ファンタジー

これに対して、

世界から入るファンタジー。世界が主眼のファンタジー。
すなわち本格ファンタジー(と名指される作品)

もちろん、キャラが主眼だからといって世界の創造がないわけでも、世界が一顧もされていないというわけではない。だが、世界創造のガチ度が違う。かたやガチガチであり、かたや、そこまでではない。その違いが、書き手の意識がメインとしてどれに向かっているかに表れるということである。注意されたい。余談になるが、世界から入るファンタジーという特徴について、ティルテュさんッ氏は「世界観ファースト」と表現している。

■本格ファンタジー作品=世界から入るファンタジー

ひかわ氏はこうも話している。

ひかわ 私の描く世界は、あんまりキラキラしていない。物語を書き始める時には、これはどういう世界ですよっていう世界観の設定が頭のほうで必ずある。でも、前田さんの場合って、世界そのものは西洋的であったりしても、なんて言うのかな、本質にあるものは非常に日本的な、和製ファンタジーそのものという感じなんじゃないのかって気がするんですよね。

「物語を書き始める時には、これはどういう世界ですよっていう世界観の設定が頭のほうで必ずある」というのは、Twitter界隈のごく一部で本格ファンタジーと言いうる小説の性質・性格を引っ張っている。ひかわ氏と前田氏を比較すると、ひかわ氏の方が本格ファンタジー小説寄りである。それはひかわ氏自身が自覚している。対談の前書きで、ひかわ氏はこう記しているのだ。

わたしが海外ファンタジーに呪縛されているとすれば、前田さんはとても素直に〝日本のファンタジー〟を楽しんでいる。そう感じます。だからこそ、わたしは前田さんのファンタジーは、日本のファンタジーの王道により近い、と感じます。

「海外のファンタジーに呪縛されている」というのは、Twitterでの限定的な言い方で言うと、本格ファンタジー小説寄りである、本格ファンタジー小説の影響を強く受けている、ということになるだろう。そして「日本のファンタジー」というのは、今で言うラノベ・なろう系ファンタジーになるだろう。

■ハイ・ファンタジーとロー・ファンタジー

ところで、ファンタジーには「ハイ・ファンタジーロー・ファンタジー」という区分がある。読んでハイテンションになるファンタジーがハイ・ファンタジー、ロー・テンションになるファンタジーがロー・ファンタジーではない(笑)。

ハイ・ファンタジー……地球が歴史的にたどってきた事実世界とは違う異世界を舞台にしたファンタジーで、異世界のネイティブが主人公。

ロー・ファンタジー……(1)現実世界の主人公が異世界へ赴くファンタジー。(2)地球が歴史的にたどってきた過去や現実の世界が舞台だが、ファンタジー要素があるもの。

この分類で行くと、たとえ世界をガチガチに創造していたとしても――つまり、本格ファンタジーと言えるものでも――主人公が異世界ネイティブではないのなら、ロー・ファンタジーになってややこしくなる。つまり、本格ファンタジーでもハイ・ファンタジーとロー・ファンタジーの両方があるということだ。なんじゃ、それ。世界創造がなされている方をハイ・ファンタジーって位置づけるって、それ、天地創造を行なったキリスト教の唯一神を影で称揚してるんやん。名前のつけ方に、もろ、キリスト教の価値観が入ってるやん。なんやねん、それ。仏教徒のおれには納得できん。なので、この分類は参考にしない。

■ラノベ・なろう系ファンタジーと本格ファンタジーの定義

というわけで、ひかわ氏の議論を踏まえて、ぼくなりに答えを出してみる。

・ラノベ・なろう系ファンタジー……世界の創造よりもキャラに主眼がある。異世界においてキャラがどうなるのかが主眼。ある意味、「キャラの物語」である。世界の創造度はガチではない。かなり練り込まれた世界観のものから、JRPG的な借り物的世界まで、幅が広い。

・本格ファンタジー……キリスト教の唯一神のようにガチで世界を創造する。天地創造ばりにインフラレベルからガチガチに世界をつくる。物語の中心に世界という太い柱がある。そして、世界がどうなっていくのか、世界の動向が語られる。ある意味、「世界の物語」「世界創造度がガチの物語」である。

ざっくり言うと、

ラノベ・なろう系ファンタジー……キャラメインの物語、キャラが異世界で活躍する物語、キャラから始めるファンタジー

本格ファンタジー……世界メインの物語、世界創造度がガチの物語、世界の行く末の物語、世界から始めるファンタジー

両者の違いは、世界創造のガチ度(世界創造の度合いがガチかどうか)である。ガチで世界創造をしているのが本格ファンタジー小説で、そうでなくてキャラメインなのがラノベ・なろう系ファンタジーである。かなりざっくりしすぎていて、議論的には穴があるのかもしれないけど、これでラノベ・なろう系ファンタジーの小説と本格ファンタジー小説との線引きはできると思う。

余談だが、平沢ヌルというWEB小説の書き手が、カクヨムの記事で鋭い指摘を行っている。

興味深い箇所を引用する。ヒロイックファンタジー(書き手はファンタジー小説と表現、ひかわ氏の言う異世界ファンタジー)とファンタジー系のラノベとの違いについて、

主な違いは、「独自の世界観を作り込むかどうか」という点がある。
 多くのライトノベルは、トールキン世界にゲーム的な味付けを重ねた、ドワーフやエルフが存在する剣と魔法の世界を採用する。あるいは、魔法設定や種族設定などで独自性を出しつつも、大筋では既存の設定を説明なしに利用したりする。

独自の世界観を作り込むかどうか」は、ぼくが言う「世界創造のガチ度」と同じである。ともかく平沢氏はこの前提から、本格ファンタジーとラノベ・なろう系ファンタジー(平沢氏は非本格ファンタジーと表記。この命名はあまりよろしくない)に切り込む。

本格ファンタジーは独自世界観の提示によって想像力を刺激する一方、登場人物同士の人間関係は、比較するとやや単純、かつストイックになる傾向がある。
 非本格ファンタジーは、既存世界観や物語形式をできる限り利用し、「そこで起きること」、特に恋の鞘当てやざまぁ、お色気ハプニングなど、クセの強い形式を持ちつつ強い情動を引き起こす人間関係的な物事にフォーカスする。

慧眼である。基本的な着眼点や指摘箇所は、自分と同じであるが、自分が「キャラ」と指摘した部分を「人間関係」と解像度高く表現した部分は、瞠目させられる。

上記指摘を取り込んで定義を書き直すと、ラノベ・なろう系ファンタジー作品と本格ファンタジー作品との違いは、

ラノベ・なろう系ファンタジー……ガチの世界創造度ではなく、キャラ(とキャラ同士の人間関係)メインの物語、キャラが異世界で活躍する物語、キャラから始めるファンタジー

本格ファンタジー……世界創造度がガチの物語、世界メインの物語、世界の行く末の物語、世界から始めるファンタジー

このように整理できる。

■本格ファンタジー小説とモダン

さて、ここで冒頭の議論に戻りたい。

すべてのエンタメ作品や文学は、誰かの心の受け皿である。そして心の受け皿は、時代と社会に結びついている。

本格ファンタジー作品やラノベ・なろう系ファンタジー作品も同じである。それぞれが大ヒットするには、それなりの時代と社会とがある。

本格ファンタジーの代表例とされる『指輪物語』が書かれたのは、1937~1949年

まだぎりぎりモダン(近代)が残っている時代、まだ世界が断片化していなくて全体性があった時代、大きな物語が存在していた時代につくられたものだ。

モダンとは、「絶対性」と「全体性」と「大きな物語」が強くあった時代だった。それぞれ説明しよう。

■絶対性と善悪の戦い

絶対性とは、正確には絶対性の存在のことである。絶対的なものが確固として存在すると信じられているということである。たとえば正義という絶対的なものがある。真理という絶対的なものがある。「正義とは――」。「正しいとは――」。こういうものが、絶対的に存在するということ、つまり、相対的な存在ではないということだ。「絶対的に正義の側が存在する「絶対的に悪が存在する」。これもまた絶対性である。一方の正義と片方の正義とが並立するのではなく、片方にのみ正義が絶対的に存在する。それが絶対性の存在という意味である。これは、絶対的な権威の存在も意味する。絶対的に公正な機関や権威ある機関が権威あるものとして信じられるということも意味する。絶対性は、中世からモダンまでを貫く特徴である。

絶対性は、本格ファンタジー小説では善と悪の戦いとして描かれていた。絶対的な悪に立ち向かう物語として表現されていた。我々は『指輪物語』が善と悪の闘争という構造を持っていたことを思い出さねばなるまい。後述するが、ヒロイックファンタジーも善と悪の戦いを多く含んでいる。その時代を代表する作品や作品群には、必ずその時代の時代性(価値観)が主要なエッセンスとして含まれている。重要なことだが、善と悪の戦いは、善も悪も相対化された存在ではなく絶対的な存在である、善という絶対性と悪という絶対性が存在するというモダンの価値観において成立するものなのである。

■全体性と大きな物語

全体性とは、国家全体という大きなまとまりが強くあるということ、統一された全体というものがあるということである。たとえばモダンの時代においては、国民的アイドルとか国民的英雄とか国民的スポーツ選手というのがあった。日本においても、90年になるまでは、「国民的~」というものがあった。国民的歌手。国民的な力士。国民的な野球選手。国民的歌謡。「国民的~」という存在があった。「国民的~」という一つの統一された全体性の存在があった。よく「全米が泣いた」みたいなうたい文句があるが、モダンにおいては「全米が知っている」「日本人みんなが知っている」というものがあったのだ。これがモダンの特徴の一つである。ちなみに日本では、1950~60年代は全集本の時代だった。全集本が飛ぶように売れたのだ。全集とは一つの統一された全体である。モダンと呼ばれた時代が「全体性」と「大きな物語」の時代であったがゆえに、全集本という体系の世界が売れたのだろう。だが、1970年代には全集本は衰退していくことになる。ちなみに全体性が行き過ぎたものの一つが、全体主義だった。

大きな物語とは「これから世の中はこうなっていきますよ」「社会はこうなっていきますよ」という、社会全体に共有されている大きな展望のことだ。モダンにおいては、科学技術の発展と進歩史観とによって、社会はこういうふうに明るい未来へ向かうだろうという展望が社会全体に共有されていた

■本格ファンタジー小説はモダンの産物

ただ、社会に亀裂は走りかけていた。しばらく戦争がなく、世界に光があふれていたモダンを、第一次世界大戦が切り裂いたのだ。大きな物語はまだ強く存在しているといっても、実は亀裂が走っていた。

その亀裂を回復するように誕生したのが、本格ファンタジー小説だったのだろうと思う。本格ファンタジー小説は、壮大な叙事詩的な形という、まさに形式的に「大きな物語」であった。

しかも、本格ファンタジー小説は、一つの世界の物語を、一つの大きな全体そして、壮大な全体性として描いている。これは全体性の再現として捉えることができる。19世紀が神が完全に死んだ時代だとすれば、死んだ神に代わって世界を創造し、その世界で絶対性と全体性と大きな物語を読者的に回復しようとしたのだろう。神が死んだ時代において、かつて神という絶対性が確固として存在した時代を、善と悪の闘争という絶対性ベースのドラマを見せることによって物語的に取り戻そうとしていたのかもしれない。

・形式的に大きな物語
・全体性の再現
・絶対性(絶対的な善と悪)の存在の前提

この3つを備えたものが、モダンに生まれた本格ファンタジー小説だった。本格ファンタジー小説はモダンという時代の産物だったのだ。全体性と大きな物語の象徴だった。本格ファンタジー小説は、絶対性と全体性と大きな物語を含んだものであり、モダンが持つ絶対性と全体性と大きな物語が確固として存在する社会と時代にこそ、最も流通するものだった。本格ファンタジー小説は、全体性と大きな物語を求める志向がある限り、ある程度の大きさの心の受け皿として機能した(つまり、一定数以上の人に受け入れられた)のだ。

■ポストモダンと相対化

だが、時代が変われば――? 多くの人が求める心の受け皿も変わる。日本では、90年代に入ってから時代と社会が明確に変化した。モダンからポストモダンへのシフトが如実になったのだ。

モダンでは絶対性全体性があり――つまり、絶対的に正しいとか言われるものがあり、一つの統一された大きな全体というのがあり――大きな物語があった。

だが、ポストモダンでは大きな物語は消える。科学技術の神話が崩壊し、それに引きずられて大きな物語は消えていく。大きな一つの全体性もちぎれ、バラバラになって断片化する。そして絶対的な存在は――つまり、絶対的に正しいとか絶対的な正義とかいったものは消える。

つまり、全体性が消え、大きな物語も消えて絶対性も揺らいだ。モダンの時代、モダンの幻想がぎりぎり残っていた80年代までは「国民的な~」という存在が、歌謡世界にもスポーツ世界にもあった。だが、「国民的な~」という形容をつけられる存在が、90年代から急速に消えていってしまった。政治家は今もなお「国民のみなさん」と呼びかけるが、国民という言い方に白々しさを覚えてしまう。それは、ポストモダンにおいては国民という全体性がイメージとして消えてしまうからなのだ。

絶対性が揺らぐと、すべては相対化されてしまう。「愛がすべてだ!」と、さもそれが絶対的であるかのように叫んでも、「それ、人それぞれですよね」「それ、あなたの感想ですよね」とひろゆき的論法によって簡単に相対化されてしまう。「自分たちが正義なのだ!」とある国家が叫んでも、簡単に別の国家が「自分こそ正義なのだ!」と叫び返して相対化してしまう。絶対性が揺らぐとすべては相対化されやすくなり、権威も揺らぐ。

絶対性の揺さぶり、崩壊は、日本においては80年代から進み、21世紀に入って顕在化している。典型的なのが勧善懲悪ものである。勧善懲悪ものとは、
片方に絶対的な善があり、対する者として絶対的な悪が存在し、絶対的な善が絶対的な正義として絶対的な悪を倒すというものである。絶対的にいい人たちが正義となって、絶対的に悪いやつらを倒すというものだ。悪を倒す人は絶対的に正義と設定されているのである。

勧善懲悪ものは時代劇とセットで見いだされるが、時代劇は21世紀の日本でかなり姿を消している。かつては週に数本あったレギュラー番組は地上波から消えて、時代劇専門チャンネルに後退している。勧善懲悪ものが持つ単純な善と悪の対立構造が、時代に合わなくなったのだ。絶対的にいい方や絶対的に悪い方というのが少なくなり、絶対的に正義にあるというのも疑わしいと考えられるようになっているのが、21世紀なのである。

この変化をいち早く捉えていたのが、1979年の『機動戦士ガンダム』だった。もし勧善懲悪ものだったなら、地球側が絶対的な正義、絶対的な善であり、ジオンは絶対的な悪とされていただろう。だが、『機動戦士ガンダム』では、ジオンは単純な悪としては描かれていなかった。ジオンにも尊敬すべきいい人たちがいた。地球側もジオン側も、決して絶対的な善でも絶対的な悪でもなかったのだ。

仮面ライダーシリーズでも、時代への変化に対しての対応がなされている。仮面ライダーシリーズでも、70年代においては勧善懲悪の構造が採用されていた。かたや、地球侵略を狙う絶対的に悪いやつらがいて、悪いやつらから地球を守ろうとする絶対的にいい人が正義として存在し、絶対的に悪いやつらを倒すという、勧善懲悪のスタイルが採用されていた。だが、仮面ライダー自体が複数化して絶対的な善や絶対的な正義が揺さぶられる形になっている。

絶対性の揺さぶりは、現実でも起きる。2003年のイラク戦争が暴露したのは、絶対的な正義の不在だった。むしろ、正義はアメリカによって捏造されていた。アメリカが軍事侵攻の正当化として使った大量殺戮兵器はイラクに存在しなかったことが、今ははっきりしている。ブッシュ大統領は「アメリカ=絶対的な善、絶対的な正義」「イラク=絶対的な悪」として色づけようとしたが、それが捏造だったことはすでに明らかになっている。絶対性はモダンの特徴の一つであり、逆に「絶対性の揺らぎ」と「相対化」はポストモダンの特徴になっているのである。

※追記 絶対的な善と絶対的な正義という存在がないこと、両者が簡単に入れ代わる、つまり、簡単に相対化されることは、2023年10月に始まったイスラエルとハマスの紛争でも見られる。ハマスに攻撃されて多くの人質を取られたイスラエルは、当初絶対的な犠牲者として見られていた。だが、その後、イスラエルがハマスに対して空爆を連続すると、イスラエルは犠牲者や被害者としての側面が弱まり、逆にハマス側に犠牲者や被害者の側面が強まった。イスラエルとハマスは、双方に対して絶対的な善や絶対的な悪としてラベリングできない複雑な状況にある。まさにイスラエルとハマスの紛争は、「絶対性の揺らぎ」と「相対化」というポストモダンの様相を映し出している。

■ポストモダンとライトノベル

世界そのものが断片化して無数のばらばらの破片となったポストモダンの時代。全体性が失われて「国民的な~」という全体をイメージできなくなったポストモダンの時代。絶対的なものが揺らいで、すべてが相対化していくポストモダンの時代。大きな物語が消えて、小さな個人個人の物語だけになったポストモダンの時代。

すなわち、90年代以降の日本。

大きな物語も全体性も消えた90年代以降の日本では、もはや本格ファンタジー小説は主流としては求められない。求められたのは、ラノベファンタジーだった。全体性や大きな物語を回復する本格ファンタジーではなく、キャラが活躍するファンタジーだった。キャラという個人個人の物語が描かれたファンタジーだった。

さらに、長すぎるデフレ経済の中、夢も希望も失われた2010年代の日本、現実世界で夢を叶えるのが難しくなった日本で、社会人的に求められたのが、なろう系ファンタジーだった。

90年代以降の日本では、全体性と大きな物語の象徴たる本格ファンタジー小説は、到底主流とはなりえない。もちろん、ニーズは決してゼロではない。ニーズは存在する。たとえポストモダンの世界であっても、全体性と大きな物語を求める人は一定数は存在する。スケール感を求める読者も一定数いる。なので消え去ることはないが、今の時代では主流とならないだろう。

簡単にまとめ直すとこうなる。

・本格ファンタジー小説……基本的には、前の時代(モダンという時代)に合ったもの。壮大さ(大きな物語)や全体性を求める人にはぴったりだが、今の時代に合っているものではないので、今の時代の主流にはならない。
・ラノベファンタジー……ポストモダンという今の時代に合ったもの。

■ジャンルがジャンルを潰すことはない

再び、冒頭で展開した一般論を思い出そう。

時代が変われば、大多数的に求められる心の受け皿は変わる。
かつて受け皿として機能していたものは小さな皿となる。新しい受け皿として時代にフィットしたものが大きな皿となる。

ある新しいジャンルの登場や、あるジャンルでの発言が既存のジャンルを破壊することはありえないその心の受け皿を求める者が多ければ、そのジャンルはいかなる圧力によっても縮小しないし消えもしないジャンルはジャンルを破壊しない。それは商業エロゲーの市場縮小ですでに説明した通りである。

ジャンルが縮小したり消滅したりするのは、社会変化と経済変動が原因である。つまり、時代が変わり、社会が変わったり日本経済で大きな変動が起きたりした結果、多くの人が求めていた心の受け皿が変わり、あるジャンルが縮小して別のジャンルが拡大する。

あるジャンルは、ある心の受け皿の具体的表現である。だが、そもそもその心の受け皿を求める人たちが少なくなれば、ジャンルは縮小し、果てには消滅する。消滅した一つが少女小説であり、ほぼ消滅した一つがケータイ小説である。

■日本人に最適化された和製ファンタジー

繰り返すが、本格ファンタジーというジャンルは存在していない。過去においても現時点においても未成立である。ただ、本格ファンタジーと名指される小説が過去にあったのは、間違いない。それは欧米から輸入された、ガチ世界創造のファンタジーだった。ただ、輸入のガチ世界創造ファンタジーが日本社会で行き渡る量、読まれる量には、限界があったのではないか。男性主人公の男性性や女性の人物の女性性が、必ずしも日本の男女の読者に最適化されていないゆえに、受容量に限界があったのではないか。それゆえ、心の受け皿としてフィットするものとしては、販売量に限界があったのではないか。

そこでガチ世界創造のファンタジー(小説やゲーム)を通過する形で和製ファンタジーが生まれた。和製ファンタジーの生成は、日本の男女への最適化の作業である。

和製ファンタジーには、世界からつくる和製ファンタジーキャラクターからつくる和製ファンタジーがあった。80~90年代にかけては、恐らくガチ世界創造のファンタジーと、世界からつくる和製ファンタジーとキャラクターからつくる和製ファンタジーが鼎立していたのだろう。ただ、三等分でという形ではあるまい。市場が日本市場であったことから、2つの和製ファンタジーの方が有利になったのだろう。さらに、そこにモダンからポストモダンへの時代変化があった。さらにバブル崩壊があった。そのもろもろの社会変動の中で、最も大きな心の受け皿として成立したのが、キャラクターからつくる和製ファンタジーだったのだろう。

以上をまとめると、日本でかつて受け皿として機能していたものが、世界からつくるファンタジー(本格ファンタジー小説寄りのファンタジーと、後に、Twitter界隈で本格ファンタジーと名指されるものと)とキャラからつくるファンタジー(王道的な日本的ファンタジー)であり、新しい受け皿として時代にフィットしてとても大きな受け皿に成長したものが、ゼロ年代からのラノベであり、10年代半ば以降のなろう系小説である。

このように考えている。

■本格ファンタジーは成立の土壌を破壊された?

ところで、Twitterではラノベやなろう系小説に本格ファンタジーが台無しにされた、あるジャンルに本格ファンタジー(というジャンル)が成立する土壌を壊されたというポンコツな言説があるらしい。

ただのルサンチマンによる八つ当たり、稚拙なスケープゴート発言である。本格ファンタジー小説をものするような知性とは対極に位置する思い込みである。

鞍馬アリス氏の指摘する通りだ。根拠がない。商業エロゲーの場合でも、印象論で指摘される「●●のせいで商業エロゲーが衰退した」の「●●」の部分には、書き手が気に入らないと感じるものが代入されていた。それが人によってはラノベだったり、泣きゲーだったり、ゲームの大容量だったりしただけである。本格ファンタジーという未成立のジャンルについてもそうだろう。「●●のせいで本格ファンタジーの発展が阻害された」の「●●」の部分に、本人の気に入らないもの――ラノベやなろう系――が代入されているだけである。

繰り返すが、あるジャンルがあるジャンルを破壊することはないあるジャンルの作品群が受け入れられているのは、それが心の受け皿になっているからだ。でも、その心の受け皿を求めている人たちが少なくなれば、その作品群は減っていく。つまり、ジャンルは縮小・衰退する。

この時、最も多く求められている心の受け皿の姿を変化させたり、ある心の受け皿を求める人たちを減少させたりするのは、別のジャンルではない。表面的には別のジャンルの登場によって、あるジャンルが縮小したように見えるが、それは間違った因果関係の結びつけである。

心の受け皿が変わったり、ある心の受け皿を求める人の数が増えたり減ったりするのは、社会変動や経済変動が原因である。社会変動と経済変動のみが、心の受け皿を変化させられる

新しいジャンル→元々のジャンルを破壊

こうではなくて

ある社会状況や経済状況→あるジャンルが人気→社会変化や経済変動→あるジャンルは縮小→変化した社会にあわせて新しいジャンルが人気

こうである。当たり前のことだが、ジャンルに、社会変動や経済変動を起こす力はない。あると考える人はマルクス主義全盛期の時代と現代とを勘違いしている。頭が20世紀前半の時代後れのままである。

繰り返すが、最も多く求められる心の受け皿は、社会変動や経済変動によって変化する。その時代的変化に応じる形で――変化した心の受け皿に対応するものとして――別ジャンルが登場し、興隆する。それを非知性的に、誤って表面的に捉えて「このジャンルのせいでだめになった」と分析を間違えているだけなのだ。一言で言えば、分析が薄っぺらいのである。

別のジャンルによってジャンルが芽を潰されるということはない大きな心の受け皿があれば、必ず作品や作品群(ジャンル)として世に出てきて広がる。潰すのは不可能である。すでに社会にあるのだから。社会にあれば、それは商売のネタになるので必ず世に出てしまう。本格ファンタジー小説を求める大きな心の受け皿が日本社会にあったのなら、何があったって本格ファンタジーというジャンルが成立していたはずだ。一部の作品しかないということが、すべてを物語っている。それくらいの程度の大きさの心の受け皿にすぎなかったということだ。

■英雄神話とマッチョ信仰

本格ファンタジーと名指される小説が、仮に「西洋風の、剣と魔法の壮大なヒロイックファンタジー」だとしても、同じことである。ヒロイックファンタジーはアメリカで広まったものだ。1930年にハワードの『英雄コナン』シリーズによって切り開かれた。

ヒロイックファンタジーの多くは善と悪の戦いを含み、世界の行く末と向き合うことになっていた。つまり、絶対性世界とがメインの要素としてあったということだ。本格ファンタジーの一種と見なしていいだろう。

ただ、当時は本格ファンタジーという言葉とは真逆のイメージで扱われていたことがわかっている。ピクシブ百科事典は当時の受け止められ方をこう記している。

こうしたヒロイックファンタジー作品のほとんどは、低所得者向けのパルプ雑誌に発表された。そのため、短く単純な構造がもとめられ、エロスとバイオレンスがふんだんに盛り込まれていた。

そのため文壇畑からは「低俗な人間の読物」「ご都合主義の俺TUEEEEE物」などと言われ、低い評価を受けてきた。

つまり、エロスとバイオレンスが売りの、低所得者向けの安っぽい低俗な小説というイメージだったのだ。かつて安っぽい低俗な小説とイメージされていたヒロイックファンタジーが、約90年後のごく一部のTwitter界隈の人から本格ファンタジーと称されるというのは、なんだか妙な気分がしてしまう。約90年前の作品をヴィンテージとか古典とか形容するのならわかるが、約90年前の作品を本格と形容することについてはかなり違和感がある。それは19世紀半ばに書かれたフロベールの小説『ボヴァリー夫人』や『感情教育』を本格小説と呼ぶようなもの、あるいは1897年にブラム・ストーカーが著した『ドラキュラ』を本格ホラーとか本格幻想小説とか形容するようなものだ。それこそ、キャンペーン的な形容でしかない。ヒロイックファンタジーは一つの時代を表すものであり、価値あるものだとは思うが、Twitter界隈で個人が本格というラベルを貼り付けて呼ぶのは、個人の中での「これ、凄い!」「これ、大しゅき!」の次元を超えていない

話に戻る。ヒロイックファンタジーという用語を提唱したのは、L・スプレイグ・ディ・キャンプである。彼の言葉に、ヒロイックファンタジーの性格が見える。Wikipediaから引用する。

全ての男性が強く、全ての女性が美しく、全ての人生が冒険的で、全ての問題が単純で、誰も所得税やドロップアウト問題、社会医療制度にさえ言及しない、現実世界から抜け出すエスケープフィクションです。

この定義からも、徹底してエンタメであること、そして旧来的な男尊女卑が埋め込まれていること、何よりも、「男は強く」というマッチョ信仰(マッチョ・イデオロギー)が強く組み込まれていることがわかる。英雄コナンが、14歳の時点で身長183cm、体重82 kg、筋肉質のたくましい体の持ち主であったことに象徴されるように、ヒロイックファンタジーのベースにはアメリカの「英雄神話の世界」「超高い男性性を備えた男性を求める、アメリカ男女のヒーロー願望」が深く組み込まれているのだ。

英雄神話とは、まだ一人前の男にならない者が難敵(だいたい魔物)を倒して一人前の男となり、トロフィー的に姫様をゲットする物語である。ちなみに河合隼雄氏は、昔話や童話の分析を通して、「日本は英雄神話の国ではない」と結論している。多くが耐える物語なのだ。敵を倒してやりぃ! みたいな話は日本では少ないのである。でも、欧米では多い。あるロシアの子供が日本の昔話を聞いていて「それでいつ敵は倒されるの?」と聞いたというエピソードを、河合隼雄氏は紹介している。それほど欧米は英雄神話の国であり、日本は英雄神話ではない国なのである。

超高い男性性を備えた男性を求める」というのは、男女ともに、精神的&肉体的にマッチョな男性を理想像とするということである。一言で言うとマッチョ信仰だ。

まとめると、ヒロイックファンタジーには、「英雄神話」と「マッチョ信仰(男性の肉体的&精神的マッチョへの希求)」とが組み込まれているということだ。

「肉体的&精神的マッチョの男性を求める、アメリカのヒーロー願望」というアメリカ社会の男性への願望、マッチョ信仰がもろに出た映画の代表例は、『スーパーマン』だろう。『スーパーマン』は、日本人に響く部分と響かない部分とがある。響かない部分は、あまりにも主人公が肉体的にマッチョすぎて精神的にもマッチョすぎることではなかろうか。日本はマッチョ信仰の社会ではないのである。肉体的なマッチョを求める日本人はもちろんいるのだけれど、アメリカと違って誰もが「男は筋肉ムキムキであるべきぃ! 心も体もムキムキでなきゃなら~ん!」と思っているわけではない。「筋肉ムキムキでない男は男ですらない」と思っているわけではない。そんなアメリカみたいなマッチョ・イデオロギーは日本に存在しない。そもそも、日本人とアメリカ人では、男女の体格差が違いすぎるのだ。多くのアメリカ人の方が、男女の体格差は激しいのである。この体格差をベースに表現されているのが、『スーパーマン』であり、日常で言うとお姫様だっこである。体格差が激しい男女の世界ではお姫様だっこは楽だが、男女の体格差が少ない日本人にとっては、お姫様だっこは厳しい。腰痛の元である。

■日本人への最適化とヒロイックファンタジー

西洋風の、剣と魔法のヒロイックファンタジーは、男女の体格差が激しく、なおかつ英雄神話が当たり前として流通し、精神的&肉体的にマッチョな男性を理想像として求めるアメリカ社会にこそ最適化された物語英雄神話とマッチョ信仰のアメリカ社会に最適化された物語だと言える。特に国の歴史が約200年と浅く、それゆえ国家という全体性、統一性を求めるアメリカにとっては、全体性を提示するヒロイックファンタジー(本格ファンタジーの一種)は好ましかっただろう(アメリカ社会に最適化された物語を日本において、日本での神髄として本格ファンタジーという名で呼ぶのは、適切な呼び方ではない)。

だが、英雄神話もマッチョ信仰(マッチョ・イデオロギー)もない日本では、西洋風の、剣と魔法のヒロイックファンタジーは最適化されているとは言い難い。最適化されていないことによって生じるズレを埋めるために生み出されたのが、和製ファンタジーである。ジャパナイズとは、日本人に対して最適化する作業のことなのだ。

和製ファンタジーが生み出されていく過程で、男性主人公の男性性は日本人読者に合うように操作されているはずである。この時点で、西洋風の剣と魔法のヒロイックファンタジーは、後塵を拝するのが宿命づけられていたと言える。

日本に流れ込んできた当初は、たとえ日本人に最適化されていないという欠点があるとしても、そもそも思春期の読者が読めるファンタジーがほぼない状態で、なおかつまだアメリカンヒーロー的な主人公を受け入れる社会的土壌が残っていたため、西洋風の、剣と魔法のヒロイックファンタジーはある程度のセールスを稼げた。

だが、日本人読者に最適化された和製ファンタジーが生み出され、和製ファンタジーが、社会変化と経済変動(不況)によって変化した心の受け皿に対応したものとなると、淘汰されて減少していった。そういうことだろうと思う。どこかの出版社がある宣言をしたとか、ある賞からヒロイックファンタジーが外されたとか、ラノベが隆盛したとか、なろう系小説が出てきたとか、そういうせいで後塵を拝した、芽を潰されたわけではないのである。西洋風の剣と魔法のヒロイックファンタジーは、元々日本人に対して最適化されたものではなかったわけであり、その時点で縮小の未来を胚胎していたのだ。

■男性性=オスとしてのスキルへの自信

一般的に、ある主人公を受け入れやすいかどうかは、その主人公に対する心理的距離で決まる。主人公が自分がそうなりたいと願う姿であると、受け入れられやすい。逆に自分の実情や理想とかけ離れすぎている場合は、受け入れづらくなる。たとえば主人公が常に学年一位で二位とか三位になったことがないという主人公は、多くの読者にとってはあまりにもかけ離れた存在である。しかも、そうなりたいと願う人は限定されている。結果、あまり受け入れられないものとなる。実際、著者も学年1位の主人公を書いたら、「主人公が感情移入しづらかった」と感想で書かれたことがある。

英雄神話とマッチョ信仰の元で生み出されたヒロイックファンタジーの主人公も、また同じである。大人のオスとして見せなければならない男らしさを、男性性と言う。大人のオスとして発揮しなければならないスキルの高さや自信と言い換えてもいいかもしれない。平たく言えば、「オス・スキル」または「オス・スキルへの自信」である。経済的な自信が増えると男性は男としての自信を持つ。つまり、男性性は上昇する。逆に経済的に落ち込むと男としての自信は低下する。つまり、男性性が傷ついた状態になる。また男性性は、女性からのdisりや仕事での精神的損耗などでも損傷する。

70年代や80年代までは、思春期の男性は同年の女性からリスペクトを受けていた。女性は同年齢の男性に対して心の底では思うところがあったはずだが、形式的には男性を立てていた。まだ今よりも強度のある状態で残っていた男尊女卑社会によって、男性の男としての自信は保護されていた。そのような「男性へのリスペクトが確保されている社会」では、英雄神話とマッチョ信仰をベースに築かれたヒロイックファンタジーの主人公は、まだ受け入れやすいものだっただろう。メディアを変えて眺めてみると、映画の世界では『ロッキー』(1976年、月曜ロードショー1983年)や『ランボー』(1982年、金曜ロードショー1985年)がヒットしていた。ともに主人公は、英雄神話とマッチョ信仰の産物だった。

だが、80年代の途中から社会が変化を始める。それが、恋愛市場の自由化である。

■恋愛市場の自由化と不況

元々、日本では過半数がお見合いや仲人のシステムによって結婚していた。恋愛結婚との比率が逆転するのは1968年である。さらに恋愛結婚が80%以上に達するのは1987年である。

この時点で、ほぼ恋愛市場は自由化したと言っていいだろう。恋愛市場の自由化が意味するのは、「(自由市場経済のように個人が自由に経済活動を行って利益を得て生活するように)男は自分で自由に恋愛活動を行って女の子と恋愛関係成立(彼女という利益)まで漕ぎ着けて、さらに結婚まで発展しなさいよ」ということである。これはもちろん、女性にも言える(女性も自由に恋愛活動を行って彼氏という利益をゲットする)のだが、恋愛市場の自由化は女性にも男性にも負担を増やすことになった。

以前なら、結婚においてはお見合いや仲人の紹介があり、男性はとにかく養う力があればよかった。真面目に仕事をしていればよかった。仕事ができれば、恋愛能力がなくても結婚できた。しかも、日本経済は上向きで、収入の増加も保証されていた。男性性があからさまに削られる状況は、今と比べると弱かったのだ。

だが、恋愛結婚の比率が8割を超えると、いきおい恋愛能力が男性に求められるようになった。男性自身がある程度以上の男性性(オスとしてのスキル)を身に付けなければならなくなってしまった。彼女を見つける、さらにセックスまで持ち込む、結婚までつなげるという3つのスキル&アクションが男性に必要とされるようになってしまった。その負担増加は、早くも思春期にも影響しはじめてしまった。思春期とは、オスとしてのスキルを覚えはじめる時期だからである。負担が増えていく中で、その負担に対して恋愛の力(スキル)をつけられずに苦しむ男性が、早くも青少年の間に生まれる。それがオタクと言われる人たちだったのだろう(1980年代、オタクは恋愛スキルのなさと結びつけて語られた)。

男性への負担が増えてなおかつ実現のためのスキルに問題を抱え込めば、それだけ男性性は削られる。削られた状態で、果たして英雄神話とマッチョ信仰をベースにつくられたヒロイックファンタジーの主人公が受け入れられるだろうか? 受け入れやすいだろうか?

NOである。おまけに90年代に突入してバブルが崩壊、上向きの日本経済によって支えられてきた男の自信が、大多数的に消滅することになった。不況になるとは、経済から自信を得られる人が少なくなることである。その影響は、大人のオスとしてのスキルに悩む者たちにも降りかかったはずである。その状況で、英雄神話とマッチョ信仰をベースにつくられたヒロイックファンタジーの主人公が受け入れられるだろうか? 受け入れやすいだろうか?

NOである。

■ヒロイックファンタジー減少の原因

ヒロイックファンタジーの主人公は、アメリカの英雄神話とマッチョ信仰をベースにしている。日本経済がブイブイ言わせていた80年代ではまだ受け入れやすい状況だっただろう。だが、恋愛結婚が当たり前となって標準となり、男性性(オス・スキル)への圧力が増加、さらに不況に突入した結果、ヒロイックファンタジーの主人公は90年代に突入して受容が難しくなった。男性読者にとっては、あまりにかけ離れた存在、感情移入しづらい存在になってしまった。

さらに、社会が明確にポストモダンに突入したという社会変化もあった。ポストモダンとは、絶対性が揺らいですべてが相対化されていく時代である。ヒロイックファンタジーの多くが特徴として持っていた善と悪の戦いは、善という絶対性、悪という絶対性が存在することを前提に成立していた。絶対性の存在――つまり、まさにモダンの産物だったのだ。絶対性があるというモダンの時代的枠組みで、ヒロイックファンタジーの善と悪の戦いは成立していたのだ。

だが、ポストモダンに入ると、絶対性ベースから相対性ベースにシフトする。善という絶対性も悪という絶対性も揺らいで相対化される。善と悪の戦いという絶対性の戦い自体も揺らいで基盤を失う。結果、善と悪の戦いという絶対性ベースの戦いが、相対性ベースのポストモダンの時代に合わなくなっていったのだ。

・恋愛市場が自由化して男性性(オス・スキル)への圧力が増加する
・ヒロイックファンタジーの主人公像の受容が難しくなる
・ポストモダンに突入して、善と悪の戦いという絶対性ベースが相対化されて成立が困難になる


以上の状況が進行する中で、時代へのミスマッチ度が高まっていったのがヒロイックファンタジーであり、逆に時代へのマッチ度が高まったもの男性性に問題を抱える日本人男性にとって大きな受け皿となっていったのが、ラノベだったのだ。90年代からヒロインが主人公のアニメがつくられるようになっているが、それは男性性(自分のオス・スキル)に問題を抱える男性読者にとってはありがたい配慮だっただろう。主人公が女性ならば、自分が苦しんでいる男性性の問題を突きつけられずに済む。時代はヒロイックファンタジーと逆の世界に向かっていたのだ。

ヒロイックファンタジーの作品数が少なくなっていった(衰退していった)のは、ラノベのせいでも、ある出版社の宣言のせいでも、ある賞の選考基準のせいでもないのである。そもそもラノベや出版社の宣言やある選考基準が、恋愛結婚の割合を高められるわけでも不況を引き起こせるわけでもない。ラノベや宣言や選考基準のせいにするのは、めちゃな八つ当たりなのである。

もし、ある出版社が何かの宣言をしたとしても、西洋風の剣と魔法のヒロイックファンタジーを心の受け皿として求める人たちが多くいれば、自然と出版社は方向転換をして、ヒロイックファンタジーを多く出すように切り替わる。こっちが売れるんじゃないかなとラインナップに揃えてみたが、セールスはいまいち。じゃあ、こっち?と半信半疑で出したら売れて「じゃあ、こっちか!」と路線転換というのは、出版社ではよくあることだ。そうはならなかったということはそういうことである。

また、どこかの賞がヒロイックファンタジーを大賞から外したとしても、それで社会の心の受け皿が変わるわけではない。ある賞の選考基準が社会の変化や経済変動を起こすことはありえないからだ。

ラノベの流行にしても同じである。ラノベが流行したからこうなったではなく、社会が変化したからラノベが流行したのだ。原因と結果を間違えてはならない。

整理すると、本格ファンタジーの一種であるヒロイックファンタジーが減少したのは、以下の理由である。

・モダンからポストモダンへの社会的シフト(大きな物語と全体性の喪失、絶対性の揺らぎ)
・恋愛結婚の増加&恋愛市場の自由化による、男性性(オス・スキル)への圧力増加
・日本経済の不況

以上により、日本社会で求められる心の受け皿が変化した。望まれる主人公像も変化した。変化した後の社会に、ヒロイックファンタジーは合わなかった。ヒロイックファンタジーの主人公も合わなかった。結果、ヒロイックファンタジーはあまり求められなくなっていったのだ。にもかかわらず、ある出版社やある賞やラノベのせいにするとすれば、それはただのルサンチマンからの逆恨みにすぎない。それでも「このジャンルのせいで……」「この出版社のせいで……」「この新人賞のせいで……」と言い続けるなら、それは分析というより、ただの狂信である。これほど、本格ファンタジーを書く知性と対極的なもの、知的距離が遠いものはない。

■本格ファンタジーと言われる作品は減ったのか?

話を元に戻す。小説の本格ファンタジーを「世界メインの物語、ガチ世界創造の物語、世界の行く末の物語、世界から始めるファンタジー」だと考えて話を進める。

本格ファンタジーと名指される小説作品が減少したのかどうかについては、はっきりとした数的証拠があるわけではない。本格ファンタジーとされる小説がいつの時代に何点あり何部売れていたのか、その推移がわからない限りは、減少したと断言することは難しい。具体的なデータがないのに断言すれば、それはただのイデオロギー発言、もっとひどくなるとデマである。

印象論なので話半分に聞いてほしいが、1996年に上橋菜穂子の『精霊の守り人』が出されている。

本格ファンタジーと名指される小説の一つだと思うが、以後、ヒット作としてシリーズを重ね、さらにまた新シリーズがヒット作として出されている。それを見る限り、本格ファンタジーと名指される小説が総量として減った(つまり、衰退したのか縮小したのか)は微妙なラインだと感じている(英雄神話とマッチョ信仰をベースに成立したヒロイックファンタジーは、日本市場への適正性から減ったのだろうが)。本格ファンタジーと名指される小説作品を日本で受け入れる最大量みたいなものがあって、その最大量は変わっていないのではないか。80年代からカウントして、本格ファンタジーと名指される作品を日本の読者が受け入れてきた毎年の総量は変わっていないんじゃないか、と自分は揣摩憶測している。誰か、ちゃんとしたデータを挙げてほしい。

さて。欧米の方では、どうなのかはわからない。もし欧米で今も変わらず本格ファンタジーが好まれるとするならば、物語世界のガチガチの創造という部分が、キリスト教の唯一神の世界創造とつながっているからではないか、その部分がいかにもキリスト教的な世界だからではないか、19世紀に神が死んだからこそ、ファンタジーという物語世界で神を創造行為の次元で取り戻そう、回復しようとしているのではないか、という感じがしている。

追記。2017年現在、アメリカでは本格ファンタジーがある模様。

■インフラ設定にかけるコストによる区別

ここからは蛇足である。つまり、ついでの話である。

インフラストラクチャーというのがある。人が社会生活を行なう上での基盤となるもの。電気、水道、道路、都市の設備、交通網、乗り物……など、生活基盤の施設や設備のことだ。略してインフラという。

本格ファンタジーほどではないが、かなり世界を作り込んであるものを本格系ファンタジーと呼ぶとすると、なろう系ファンタジーと本格系ファンタジーと本格ファンタジーとは、インフラストラクチャーで分けることができる。

JRPG的なインフラでつくられたものがなろう系ファンタジー。冒険者ギルドがあったり、換金システムがあったり。JRPG的なインフラでつくられている。いわゆるナーロッパ世界である。

リアルの中近世ヨーロッパのインフラでつくられたものが、本格系ファンタジー。

インフラをがっつり作り込み、それだけでなく、地理、風俗、歴史、神話まで作り込んじゃった(ある意味やりすぎちゃった)ものが、本格ファンタジー

JRPG的なインフラでつくられたなろう系小説では、インフラ設定に対してあまりリソースをぶち込まなくていい。JRPGからインフラのアイデアやインフラ設定そのものを借用する形になるので、インフラに対してコストを掛けなくて済む世界のインフラ設定に関してはローコストである。下手をするとノーコストになる。

なろうサイトでは、当初、本格ファンタジーの投稿が多かったという。だが、本格ファンタジーをつくるのはハードルが高い。結果、次々と早期に更新が中断となる。代わって現れたのが、JRPGをベースにした今のなろう系ファンタジーだった。なろう系ファンタジーは、多くの人が作り手に回れる道を切り開いたのだ。世界のインフラ設定をローコストで済ませられることによって、「多くの素人の方がファンタジー創作という垣根の高い世界に飛び込める」という状況が生まれたのだ。それに対して、杜撰という批判を向けるのは、それこそ批判&非難されるべき蔑視だろう。自分の趣味ではないものでも、すべてに存在理由がある。

素人がファンタジー世界でインフラ設定するのは、かなりハイコストなのだ。インフラ設定というハイコストの部分がローコストになることによって、多くの素人がつくれる道が切り開かれたのである。エンタメの世界でもスポーツの世界でも、プレイヤーが多いほどその世界は豊かになり、頂点の人材もすばらしくなる。漫画はその最たる例である。

ちなみに。本格系ファンタジーや本格ファンタジーをつくるには、相当資料が必要である。設定作業もめちゃめちゃ時間が掛かる。相当量のリアル中近世ヨーロッパの知識が必要で、相当量の専門書の読書が不可欠になる。リアル中世都市の図面とか、道路のこと書いた専門書とか、馬車について著した専門書とか、中世前期のゲルマン民族の法典とか。

いっぱい専門書を読んでいないと、本格系ファンタジーも本格ファンタジーもつくれない。しかも、専門書は高い。読むのに時間も掛かる。本格系ファンタジーや本格ファンタジーをつくるのは、金銭的にも時間的にも、かなりハイコストなのだ。

■なろう系小説と本格ファンタジー作品の違い

というわけで、インフラ設定のコスト別に整理すると、こうなる。

なろう系小説……ローコスト
本格系ファンタジー……ハイコスト
本格ファンタジー……超ハイコスト

ローコストの世界には、ローコストゆえの面白さとメリットとデメリットがある。

ハイコストの世界には、ハイコストゆえの面白さとメリットとデメリットがある。

超ハイコストの世界には、超ハイコストゆえの面白さとメリットとデメリットがある。

コスト別にファンタジーの世界にはメリットとデメリットがあり、そのコストゆえの面白さがある。三者に根本的な優劣はない。そしてどのコストのファンタジー世界が好みかは、人の好みや感性や価値観によって違う。そして他人の好みにいちゃもんはつけられない。ってか、つけるのは無粋

■特別視と見下し

でも、なぜか本格ファンタジーを唱導する人たちの中には、ラノベやなろう系ファンタジーに対して攻撃的な態度を見せる人がいる。

熱意や意気込みはわかるんだけど、結果的にラノベとラノベ読者とラノベ系の書き手をdisっている。「全然disってない」って反論する人いるかもしれないが、別のものを代入するとよくわかる。

マンガだけしか読んだことのない人には書けない

これ、マンガをdisってないって言える? マンガだけを読んでる読者をdisってないって言える? disっちゃった形になってるよね? そう受け取られる書き方になってるよね? 書き手がマンガに対して持つ否定的な価値判断が透ける形になってるよね? 限定を意味する「だけ」と「しか」の両方を使っていることからしても、「読書はマンガオンリー」って部分が過剰に強調されて、マンガへの批判的な眼差しやマンガへの否定的な価値観が浮き上がってしまっている。

マンガ以外あまり読まない人にはなかなか書けない

これだと批判的な眼差しも否定的な価値判断も弱まる。disってる感じも弱くなる。でも、「だけ」「しか」と限定の言葉を2つもくっつけてしまうと、disりの色が強まってしまう。

なぜ「ライトノベルだけしか読んだことのない人には」なんて、disる書き方をするんだろう? ラノベに対する否定的価値判断が透ける書き方をするんだろう? マジレスすると、いわゆる本格ファンタジーを読んでるからといって書けるわけじゃない。そもそも学者級の知識量がないと書けない(なので、学術関係者にはリスペクトを払う)。

なぜ、「他では味わえない規模感と壮大さがある」っていう書き方ができないんだろう? なぜわざわざラノベを貶めるんだろう? なぜラノベに対して喧嘩を仕掛けるんだろう? なぜ自分たちの優位性を誇示主張しようとするんだろう? あなた方は、ラノベに対して作品を売るの? なろう系ファンタジーに対して作品を売るの? 売る相手は客ではないの? 読者ではないの? あなた方が視線を向けるべきは読者ではないの? なのに近接ジャンルに顔を向けるの? それは、客に顔を向けずにトヨタにばかり顔を向けて失敗をこいた90年代の日産と同じではないの?

どうも、自分たちの優位性を主張し、自分たちを特別視し、隣接ジャンルを見下すのが鼻につくんだよね。とても残念。

その特別視、その見下し、必要なの? って思ってしまう。

正直、いらんやん。でも、その特別視の意識、見下す視線が、多くの人の反感を買ってるんちゃうの? わざわざ反感を買う必要あるの? って思ってしまう。

別に特別視も見下しもせえへんと、自分のやりたい道を進めばええやん。自分たちは自分たちで自分たちが面白いと思う世界を突き進めばええやん。

なぜそこで他のジャンルや他のジャンルの読者たちに対して攻撃的な、蔑視的な態度を取るの? なぜ「おれたちはわかっている者、同志以外やおれたちへの批判者は、わかっていない愚民ども」みたいな態度を取るの? なんでそこでわざわざ仮想敵をこしらえて攻撃してエネルギーロスを起こすの?

その攻撃性に割くエネルギーも含めて、全部作品づくりに向けなよって思う。自分たちの読者に対して、そして自分が目指す面白さに向かって、自分の全エネルギーを向ければええやん。もし、ただ騒ぎたいだけ、炎上を起こして注目を集めたいだけなら、迷惑系youtuberとまったく変わらへんよ?

■特別視と見下しからはヒット作はつくれない

彼らや彼女たちに当てはまるかどうかはわからんけど、

「自分の方が優れてる。自分位の作品の方が凄い。なのに、世間はなんだ? あんなつまらんものを持て囃しやがって。あんな作品のどこがいいんだ? 作り手のどこが素晴らしいんだ? そうか、大衆はバカなのだ。だからあんなものを持て囃すのだ」

みたいに思っていると、自分を特別視して大衆を見下す言い方になってしまうんだよね。自分は優れているのに、世間は自分や自分が好きなものを評価しない……。そのルサンチマンが侮蔑的な言い方をさせてしまう。そしてそういう侮蔑の眼差しを自分が持っている限り、自分の作品が大衆性を獲得すること、つまり、自分の作品が非常に多くの人に受け入れられることはないんだよね。だって、大衆をバカにしてんだから。バカにしていて、持て囃されるわけないやん。他人をリスペクトせずに他人(読者)から書き手としてリスペクトされるわけないやん。

ぼくもゼロ年代初頭、萌え全盛の世界に対して、なんでこんなものがって……ルサンチマンを抱いてた。

でも、当時のぼくは、本当に面白いものを生み出せてない二流以下だったんだよね。本当に面白いものを生み出せてないのに、自分の作品が評価されるわけないやん。この人の作品面白いって言われるわけないやん。

つまり、一言でいえば、ただの実力不足の遠吠え、負け犬の遠吠え。

自分が間違ってたわけ。「今、全盛の萌え作品はあなたの趣味に合わないだけ。あなたが萌えにアジャストできていないだけ。そしてあなたが評価されないのは、そもそも、あなたが面白いものを書けてないからでしょ?」ってことだったわけ。で、その根っこには「今の状況は間違っている」「大衆は馬鹿だ」って間違った前提が隠れていたわけ。

当時萌えが大衆的に選好されたこと、萌え系ロマンスや泣きゲーが大衆的に選好されたことは、大衆的に正しい選好(選択)だったんだよね。間違った選択じゃなかったんだよね。馬鹿な選択でもなかったんだよね。そして選択した大衆が集団的に馬鹿だったわけでもなかったわけ。間違った選好だ、そういう選好をするのは大衆が馬鹿だからと断じた自分こそが最も世界で馬鹿だったわけ。で、当時の自分は、自分の馬鹿さを棚上げして、「こんなのつまらない」「なんでこんなつまらないものがあるんや」「大衆がアホやからや」って、実力不足の遠吠えを続けていたわけ。

ラノベやなろう系に噛みついて本格ファンタジーの優位を叫んでいる人も、そういうところ、あるんじゃないのかな。「なんでこんなくだらない作品が……」ってルサンチマンでものを言い過ぎ、自分と違う趣味の人を蔑視しすぎ、大衆を馬鹿と否定しすぎ、他人に対してリスペクトがなさすぎじゃないかな。

本物の力、本当に面白いものを生み出せる力があると、ルサンチマンがないので、吠えないんだよね。自分の趣味とは違う人を、違う世界を、凄いなと思えるようになる。本当に面白いものをつくるためには、攻撃性剥き出しとかルサンチマン剥き出しはだめで、自分の感情をやエネルギーを「読者に面白いって感じてもらおう!」って気持ちに100%向けることが必要なのです。

本格ファンタジーを掲げて攻撃的な言動や他人に対して蔑視的な言い方をしている人には、そうなってほしいなと思う。そして、本格ファンタジーの衰退を叫ぶのなら、そもそも、本格ファンタジーと名指される小説のタイトル数と販売部数の推移を是非示してほしいなと思う。

■日本でのファンタジーの先駆者、少女マンガ

ちなみに本筋とは離れる蛇足になるが、西洋風異世界ファンタジーが70年代に日本に輸入される遥か前に、実は少女マンガでファンタジーが始まっていたことが、先の論文でローベル柊子氏によって指摘されている。

 1953年には手塚治虫(1928-89)の『リボンの騎士』(1953-56)の連載が講談社の『少女クラブ』にて開始されるが、これが少女マンガにおける最初のファンタジー的作品と言える。天使チンクのいたずらで男の心と女の心の両方を持って生まれたシルヴァーランド王国の王女サファイヤは、表向きは王子として男装で剣を手にとり、宮廷の陰謀やサファイヤの女の心を狙う魔女の悪企みに立ち向かっていく。亜麻色の髪のかつらをかぶって娘の身なりをしたときに隣国のフランツ王子と出会い恋に落ちるが、フランツ王子は誤解から王子としてのサファイヤを敵視するという恋愛を阻む困難の要素も組み込まれている。神や天使、魔女、悪魔、魔法などが合理的説明なしに当たり前のように存在する世界を舞台に繰り広げられる冒険は妖精物語に近いが、二つの性の間で揺れるサファイヤの心の葛藤をはじめとして登場人物の心理が丁寧に描写されており、単なる子ども向けの童話の域を超えた作品となっている。手塚はその後も日本の民話を題材にした『つるの泉』(1956、 講談社『少女クラブ』))や、古代ギリシャ・ローマ時代を舞台にした『火の鳥』(1954-86、エジプ ト編、ギリシャ編、ローマ編は講談社『少女クラブ』)などのファンタジーを手掛けている。
 1960年には水野英子(1939-)の『星のたてごと』(1960-62、講談社、『少女クラブ』)が発表される。中世ヨーロッパ風の世界を舞台に伯爵の娘リンダと吟遊詩人ユリウスの宿命的な愛を描いている。二人は惹かれ合うものの、実はユリウスは敵のザロモン人の王子で、リンダもまた、その正体は人間ではなく、運命を支配する大神プレアデスの七姉妹の末娘の生まれ変わりという設定になっている。戦場に赴き、亡くなった者の魂を死の国へ導くという北欧神話のワルキューレを思わせる役目を担っていたリンダは、掟を破って瀕死のユリウスを黄金の指輪で蘇らせた罰として地上に落とされ、ユリウスを殺すことを命じられていたのだ。このような非日常的な空間における壮大なドラマを描くファンタジーは、学校や家庭など現実の生活の中で起こりうる悲しく怖い物語が主流の少女雑誌ではあくまで傍流だったが、一つの路線として次世代に受け継がれていく。

萩尾望都『ポーの一族』(1972年)、竹宮恵子『ファラオの墓』(1974-76)、文月今日子『エトルリアの剣』(1975年)、細川智栄子『王家の紋章』(1976年~)、山岸涼子『妖精王』(1977-1978年)、和田慎二『ピグマリオ』(1977-1990年)などを例示した後、ローベル柊子氏はこう述べている。

 このように、70年代の海外ファンタジー小説の日本への移入より以前に、ファンタジーのジャンルが少女マンガの分野ですでに開拓されていたことは明らかだろう。海外作品の影響を受けて、日本人作家が本格ファンタジー小説を発表するよりも前に、少女マンガにおいて神話や民話をもとにした壮大な物語が描かれていたのだ。

さらに興味深いことも記している。

 このような少女マンガ家の画力そして自由な想像力は実際、70年代以降に海外のファンタジー小説が日本に普及していく上でも大いに貢献した。海外のファンタジー小説を対象とした「ハヤカワ文庫FT」のカバーイラストや挿絵をファンタジーマンガを発表してきた少女マンガ家たちが担当したのだ。山岸涼子はマキリップの『イルスの竪琴』シリーズ(1979、1980、1981)、萩尾望都はL・スプレイグ・ディ・キャンプ(1907-2000)&フレッチャー・プラット(1897-1956)の『妖精の王国』(1980)、ダンセイニの『魔法使いの弟子』(1981)、『闇の公子』(1982)などのタニス・リー(1947-2015)の作品、中山星香(1954-)はナンシー・スプリンガー(1948-)の『アイルの書』シリーズを手掛けた。
 少女マンガ家の起用については、数多くのファンタジー作品の翻訳を手掛け、ファンタジー文学研究にも携わる脇明子の提案があったとされる。これに加えて、ハヤカワ文庫FTの創設者である風間賢二はインタヴューで、少女マンガ家が持っていた女性読者への影響力や、70年代後半に入ってから少女マンガというメディア自体が社会的に注目され始めたことを理由に挙げながら、編集者の側でも少女マンガ家の力を借りることを検討していたと述べている。

日本におけるファンタジー小説の輸入と普及に対して少女漫画家が果たした役割は、決して小さくはない。

序盤で記した西洋ファンタジーの受容史に結びつけて書くとするならば、こうなるだろう。

1953年、手塚治虫『リボンの騎士』開始。日本の少女マンガにおける初のファンタジー作品。

1970年代、日本の少女マンガにおいてファンタジー作品が発展。

1970年代、『英雄コナン』シリーズ、『指輪物語』、『ゲド戦記』などの欧米のファンタジー小説が日本で翻訳出版される。挿絵はファンタジー作品を描いていた少女漫画家が多く担当。輸入&翻訳と同時に国産ファンタジーも少しずつ展開される。

1979年、本格的な国産のヒロイックファンタジー、栗本薫『グイン・サーガ』シリーズが開始

80年代後半国産のファンタジー作品が、ゲームと小説で続々と展開される
 ゲーム……1986年、『ドラゴンクエスト』発売。
 小説……1988年、『ロードス島戦記』発売、ファンタジー小説の展開が本格化

ファンタジーという言葉の源流や変遷については、鞍馬氏が調査を始めてくださっている。

さらに少女マンガが絡むとどうなるのか。少女マンガにおけるファンタジー作品の一足先の萌芽と発展が、果たして日本のファンタジー小説に対してどのような影響や関係を持っていたのかは、学者の研究を竢(ま)ちたい。

ともあれ、ファンタジーの少女マンガが1950年代から始まってずっと受け継がれていたという歴史的事実、さらに70~80年代の輸入ファンタジーの挿絵を少女漫画家が何人も担当しているという歴史的事実を考えると、果たして輸入ものを「本格」と冠してジャンル的に呼称しようとするのはどうなのだろうと立ち止まって考えざるをえない。本格が本来の格式という意味を持つのならば、日本において本来の格式を持っていたのは、少女漫画家が切り開いたファンタジー作品なのか、海外からの輸入ファンタジー作品なのか。自分がものした本格ファンタジーの定義は妥当であると思うが、果たして名称に「本格」を冠することに妥当性はあるのだろうか……と考えざるをえない(考えた上でそれが妥当ならば問題はない)。

■最後に

最後に宣伝です。hj文庫から『高1ですが異世界で城主はじめました』シリーズを書いています。2013年から書いてます。

今24巻発売中で~す。本格ファンタジーではないけど、本格系ファンタジーだと思います。毎回条文出てくるし(笑)。そのために中世とか近世のリアル法典調べたりしてるし(笑)。

それから、2009年から『巨乳ファンタジー』(Waffle)という商業エロゲーのシリーズをずっと続けています。

あと、ソシャゲ『巨乳ファンタジーバーストX』も始まります。一般向けは『バースト』。

■追記~本格ファンタジーというジャンルは未成立

本格ファンタジーの定義や位置づけについて長文をものしたのは、本格ファンタジーと一部で限定的に騒がれているわりにはしっかりした定義や意味づけが全然充分になされていないポンコツな状況が我慢ならなかったからです(笑)。「今、Twitter界隈で本格ファンタジーって言葉で名指されているものって、中身、これでしょ? ちなみに、こういう位置づけでしょ?」って示したかっただけです。もっと高いレベルでちゃんとやってくれよっていうね(笑)。

「現状はこうであるって分析して何の意味があるねん、これからのファンタジーはこうしろみたいな処方箋を出せ」と言う人がいるかもしれないけど、処方箋の前に診断があるわけよ。診断が間違っていたり、ただの思い込みだったりすると、処方箋も見当違いのものになってしまう。だから、このようにがっつり分析をやるんです。それがわからない人に本格ファンタジーを書くなんてハイレベルな知的営為はできません。

「おれが(ラノベ)業界を変えてやるぜ!」みたいなことを言った人で実際に商業化した例を見たことがないというツイートがありましたが、そういう人って今の市場を否定しているだけ、つまり、売れてる作品群が多くの読者に受け入れられている理由を把握できていない今のマーケットや社会がまったくわかっていないわけで、そういう人が今の市場、今の社会にアジャストして今の時代と社会の人がたくさん読むものを生み出せるかっていったら、無理なわけです。マーケットわかってないんだから。今の日本の社会、日本の人たちのことがわかってないんだから。だから、今のマーケットに対してヒットするものを出せない。商業的に頓珍漢なものしか出せない。それで芽が出ずに消えるのだと思います。今の市場をただ否定するだけの人って、芽が出ないんだよ。

ラノベファンタジーなり、なろう系ファンタジーなり、今流行っているものに対して否定的な人って、単に今の市場を否定しているだけなんです。「今のこの流行状況は間違っている」ってふうに間違って捉えているわけ。で、これ、作り手にとっては大問題なんです。それって、「大衆の選好(数ある選択肢の中からあるものを好んで選ぶという選択)が間違っている」って言っちゃってるわけ。大衆は正しい選択をしていないって思ってるわけ。たいして面白くないのに、価値なんてないのに、間違ったものを大衆は選好してしまっているって考えてるわけ。

これ、大衆を下に見ている、大衆を間違いを犯した存在として見ている、大衆(の選択)を否定しているわけね。もちろん市場も否定してる。今のお客さん、今のマーケットを否定してる。否定しちゃうと、じゃあ、間違った理由はなんなんだってことになって答えをひねり出そうとすると、出てくるのは「大衆は馬鹿だから」「アホなやつが大衆を煽動したから」「大衆が煽動されたから」「それくらい大衆はアホだから」になっちゃうわけ。

でも、ここで矛盾が生じてしまう。自分がアホだと思っている大衆に、自分がいいと思っているものを広く読んでほしいわけよ。アホなのに、なんで読んでもらえるの? もらえないよね? 行き詰まるよね?

行き詰まるのは、大衆が選好においてアホであると前提するのが間違っているからなんだよね。市場を否定するから、間違った前提を出してしまう。でも、大衆の選好(選択)は間違ってないんだよね。社会がこういう状況で経済がこういう状況だから、心の受け皿としてラノベファンタジーやなろう系ファンタジーを第一に求めているわけ。それは適切な選択なわけ。大衆の選好は、集団的には間違ってないんだよね。

でも、間違っていると思い込んでしまってる。端的に言うと、市場分析に大失敗してるわけ。市場分析が間違うと、処方箋も全部狂う。そして間違っていることを前提にしているので、そうじゃないよ、あなたの前提(市場分析)は間違ってるよと言う人とは決定的に話が合わない説得も不可能で見識が改まらないし深まらない。ヒトラーは「こうだ!(ユダヤ人がすべての元凶だ!)」と思い込みたくて、間違った思い込みを強化する本しか読まなかったけど、それと同じになってしまっている。それでは正しい処方箋は永遠に出されない。

今のお客さんや今のマーケットを否定しようが、お客さんやマーケットを自分が変えられるわけではない。作り手にできることは、今のマーケット、今のお客さんの姿を認めて、その中で自分が書きたい本格ファンタジー小説を、どんなふうにすればより多くの人に楽しんでもらえるのか考え、苦闘することだ。書き手はそこにのみ注力すべきなのだ。他人への挑発やいらない論争に注力すべきではない。個別的な話ではなく一般的な話として、論争に注力して罵倒を繰り返す人はただマウント欲求が強いだけ、権威主義的な部分(自分が一番の権威として認められたいという欲求)が強いだけということが多い。純粋に議論が好きな人は罵倒をしない。

話を本格ファンタジーに戻します。

本格ファンタジーと言われているものの中身はこうだよと示したからといって、ぼくが小説において本格ファンタジーという枠組みやジャンルが成立していると考えているわけではありません。むしろ、成立していないと考えています。

たとえば細分化が進む90年以降では、商業小説においてあるジャンルが成立する時、それ専門のレーベルが誕生します。エロラノベというジャンルが成立する時には、1993年にナポレオン文庫というエロラノベ専門の商業レーベルが誕生しています(1986年に誕生した富士見文庫(富士見美少女文庫)は、30タイトル中、少なくとも2タイトルが非ポルノなので、専門レーベルとみなさない)。ラノベも、たくさんのラノベ専門のレーベルを抱えています。なろう系小説を出す専門のレーベルも存在します。しかし、商業小説において本格ファンタジー専門のレーベルは過去にも今にも存在していません。つまり、小説において本格ファンタジーというジャンルは未成立であると結論していいと思っています。ぼくが「本格ファンタジーと名指されるもの」「本格ファンタジー作品」「本格ファンタジー小説」という書き方をしてきたのは、本格ファンタジーというジャンルが確固として存在する、成立しているという間違った印象を与えないようにするためです。本格ファンタジーというジャンルは成立していません。

Twitter界隈で騒がれている本格ファンタジーの源流は、西洋風の異世界ファンタジーです。それが日本に取り込まれてジャパナイズされ、2つの系統に分かれたのだろうと思います。1つは世界で始めるファンタジー。もう1つはキャラで始めるファンタジー。今の主流は、後者の「キャラで始めるファンタジー」、すなわち、ラノベ・なろう系ファンタジーです。これは日本人に最適化していった結果、そして時代と社会の心の受け皿として進化していった結果です。

本格ファンタジーと言いうるファンタジーの小説作品は、1996年以降も継続的に出されています。ヒット作も生まれていますが、ラノベやなろう系小説に比べると非常に少数です。本格ファンタジーという小説のジャンルが果たして成立しているのか、つまり、ジャンルが成立していると言いうるレベルに到達しているのかについては、が答えです。ダ・ヴィンチさんの2014年の記事を見ても、そう感じます。

ここで挙げられているのは、いわゆる戦記ものなのです。我々が定義した本格ファンタジーの意味、ガチの世界創造という文脈では語られていないのです。本格ファンタジーという言葉は、依然としてキャンペーン的な、セールス文句のレベルにとどまっているのだと思います。

ちなみに当時、この記事に対して違和感を覚えた方がいたようで……。

このツイートを見る限り、2014年の時点で、「本格ファンタジー小説とはこういう作品群」というふわっとしたものはあった模様。

さて、売り文句としての本格ファンタジーではなく、枠組みとしての本格ファンタジーという概念にも踏み込んでおきましょう。

枠組みとしての本格ファンタジーというのは、ジャンルとしては成立していないのだけど、ジャンルとして格上げしようとした運動の中で生み出された集合的枠組みという意味です。運動的な枠組みとしての本格ファンタジーという集合的概念は、最近生み出されたものではないか、具体的には2020年代に入ってTwitterで生み出されたものではないかとぼくは疑っています。同じことを、あるアマチュアの方も感じ取っています。感じ取ったきっかけになったのは、次の記事のようです。

「純ファンタジー」というジャンルが欲しい

上記エッセイを読んで、

興味深い指摘だと思います。上のツイートで言う「本格ファンタジーという言葉」とは、「本格ファンタジーという枠組みとしての概念」という意味でしょう。

ちなみに本格ファンタジー小説という意味での「本格ファンタジー」という言葉は、2008年にも確認できます。

上で言う「本格ファンタジー」とはジャンルとしての本格ファンタジーではありません。

また、ラノベに本格ファンタジー小説はないという指摘は、2014年に確認しました。

ただ、ラノベにもあるという意見はある模様。ここで言われている本格ファンタジーは、本格ファンタジー小説の意味だろうと思います。

ドラゴンとセットという意見も。

ただ、ラノベでもあるエセファンというのもあるらしい。

さらにこんな予想外の意見も。

ともあれ、本格ファンタジー小説という意味での「本格ファンタジー」という言葉は、ゼロ年代にも10年代にも、本格ファンタジー小説が好きな人たちの間で流通しているようです。

では、本格ファンタジーというジャンルを成立させるぞ、という運動とともに生み出された「本格ファンタジーという枠組み」がいつ誕生したかになると、特定は難しい部分があるのですが、ツイートを見ていて一つ気づいたことがあります。本格ファンタジーの定義論が2020年から始まっているのです。証拠としては不充分ですが、定義論がツイートされるようになった2020年あたりに本格ファンタジーという運動的な枠組みがTwitterの非常に狭い世界で生まれたと推測してもいいのではないかなと思います。

ともあれ。繰り返しますが、本格ファンタジーというジャンルは成立していません。現時点では、あくまでも売り文句やひとつの形容(「すげえ規模感があって重厚」という作品への形容)というレベルに留まっています。

何度も言いますが、本格ファンタジー小説は、別のジャンルの隆盛やある出版社の宣言やある新人賞の規約によって衰退したわけでも芽を潰されたわけでもありません。時代的にメインのものとはならなかった、日本の社会(に生きる人たち)の一番の心の受け皿にならなかった、時代の変化に対応できるものではなかったというだけのことです。代わりに時代の変化にアジャストしたもの、時代の変化によって新しく生まれた非常に大きな心の受け皿となったものがラノベであり、なろう系小説だったということです。

にもかかわらず、その事実を否定してラノベというジャンルやある出版社や新人賞のせいにしつづけるとしたら、それは今のマーケットに対する拒絶今のお客さんに対する否定でしかありません。つまり、同時代に対する否定です。ある意味、「自分が好きな本格ファンタジー小説」を絶対的な善と見なし、ラノベやなろう系小説や自分に反論する者たちを絶対的な悪と見なしているわけで、あまりに時代遅れな、1930年代的な近代の考えに毒されすぎている、本格ファンタジー小説が生まれた頃の時代と世界観にいまだなお引きずられて2020年代という現代に対してまったくアップデートできていない状況であると言わざるをえません。非常に残念なことです。

もちろん、だからといって本格ファンタジー小説に価値がないとか意味がないと言うわけではありません。価値も意味もあります。世界創造の度合いが半端ないファンタジー小説(すなわち、本格ファンタジーと言いうるファンタジー小説)は、今後も少数でありながらリリースされ、いくつかがヒットするでしょう。たとえば5巻本予定の『レーエンデ国物語』みたいにね。

2023年10月現在、『レーエンデ国物語』に対して書店では「大人のためのファンタジー」というポップが添えられています。1930年代のヒロイックファンタジーも同じように「大人向け」として売り出されたことを思うと、状況はまったく変わっていないのだなと感じます。わざわざ「大人のための」と断り書きをしないといけないというのは、本格ファンタジーがジャンルとして成立していない、大人向けのジャンルとして成立していないという証拠ですね。また、セールス文句としてのみ流通しているという証拠でもあります。

ラノベやなろう系の到達点と同じように、本格ファンタジー小説の到達点も尊敬に値するものです。ラノベやなろう系を世に出す意味や価値があるのと同様に、本格ファンタジー小説を世に出す意味や価値はあります。でも、本格ファンタジーと言いうる小説のヒットが、小説という世界において本格ファンタジーというジャンルの成立を約束するのかというと、現時点では懐疑的です。ヒットする本格ファンタジーの作品は生まれる(これは今後も続く)けれど、本格ファンタジーというジャンルは成立しないでしょう。

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