教養とは本質的にどのような意義があるか

Twitterをみていると定期的に教養の話になる。古典漢文不要論が定期的にぶちあがり、「春はあげぽよがわかんないじゃん!」と反論し、「教養を身に着けてその程度ならいらんわ」と冷笑される。
そういうことじゃないと思うんだけど。というかこんなクソつまらないギャグを教養扱いするな。そらその程度ならいらんわ。

Twitterの話題はこの辺でうろうろしている。それはそれでありがたい面もあるのだが、教養の意義がそこで止まっているともはや価値毀損が著しい。そう考えていたので、私なりに考えている教養の意義について述べることにする。
端的に言えば、教養は人生に時間と心の余裕をもたらしてくれるのだ。自動的に、つまり何もしなくても。

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教養の意義

ネタが分かるのは確かに大事

そもそも共通の話題がセックスとギャンブルだけなのは卑しいという気持ちになる。それよりはシェイクスピアの一節を引いて会話したほうが高級っぽいじゃないか。
とりあえず素朴にそう感じる人は多いだろう。というかそう思わないと自発的に何かを学ぼうとは思わないだろうから、話の出発点をここに取ることにする。
実際、何かを諳んじるだけで「おおっ?」となる瞬間というのはある。ヴェーダを暗唱するインド人はシンプルにすごい。アメリカに行くと九九がインストールされている日本人も似たような尊敬を集めるらしい。フィクションの中のことだが、乞食がシェイクスピアを諳んじただけで労働者の平均的な日給を超える稼ぎがあったとかいう話もある。その乞食が教養人かどうかはともかくとして、自己顕示効果は教養の重要な役割だ。

ここまでは自分の価値を高めるために使っているのでなんでもいいのだけど、どうも知っているか知らないかでマウントを取るために使っている奴がいるっぽいのをひしひしと感じていた。そういうことをしないための教養じゃないんか? 身勝手な目的のために悪魔が聖書を引いているだけなら、それは教養と呼んでいいのかどうかよくわからない。

でも高度な会話をするときには、たとえ話が多いほうがいい。これも教養の重要な役割だ。

ちょっと前だがコスメとトレカの共通性を見抜いたことで男女の相互理解が一気に進む事件が起きた。つまり何かを理解するときに、その知識そのものの理解以上に自分の知っているフレームワークに落とし込めるかのほうが大事な場面というのがいくらでも出てくる。
語る側としては引き出しが多いほうがいい。ガンダムを知ってそうな人にはなんでもガンダムで例えるとかはその一例。まあこういうことを相手の専門分野に合わせてうまくたとえ話を作れれば、自分の主張は通りやすい。

でもそれって一面的だなあと思うわけですよ。というかそれなら、淫夢語録で全然いいじゃないか、と。

Cultivateされるということ

なぜ敢えて「教養」と呼んでいるか、一度考えたほうがいい。
educated な人はたくさんいる。cultivated の話がしたいのだ。

認知心理学における重要理論として「スキーマ理論」というのがある。
要するに我々はモノゴトをそのままとらえているように見えて、何かの集合体(部品、経験、感情、因果関係がひとまとまりに付着したもの)を一体のものとして捉える機能を通じて理解しているという仮説である。その一体として捉える機能をスキーマと呼ぶのだが、ここからがすごい、ヒトは自分の持っているスキーマを通じてしか世界を認識できないのだ
だから持っているスキーマの多寡は、そのまま世界解釈の多様性と直結する。まったく同じものを見ているはずなのに。

たとえばリンゴを目の前にして思うことは何かと問うたとしよう。

「赤い、甘い、おいしそう、食後にたべたい」(食べ物スキーマ)
「スティーブ・ジョブズ、iPhone」(商標スキーマ)
「パリスの審判」(ギリシャ神話スキーマ)
「善悪を知る実、禁断の果実」(聖書スキーマ)
「万有引力の発見」(物理スキーマ)
「りんごとナプキン」(美術スキーマ)
「ジャムやジュースになりそう。このリンゴはジャム向きかもしれない」(料理スキーマ)
「青森県産かな? 青森県産リンゴは国内生産量が6割を超えていて……」(地理スキーマ)
「バラ科の果実。いわゆるセイヨウリンゴのことだけど……」(植物学スキーマ)
「和名類聚抄に利宇古宇とある果物は今のリンゴとは違う中国経由のもので、このリンゴは明治期に入ってきたものが大規模栽培に成功した……」(古典スキーマ)
「ソシュールによると、こいつがなぜリンゴと呼ばれるかについてその必然性は実は一切なく……」(言語学スキーマ)
「リンゴの甘味はブドウ糖や果糖がほとんどなんだけど、いわゆる蜜の部分は蓄え切れなかった単糖類がソルビトールに変換されて無理やりたまっている状態で、蜜そのものは全然甘くなくむしろ……」(化学スキーマ)

と様々な見方を連想できるかと思う。この連想の広さがそのまま発想の豊富さにつながるのは言うまでもないだろう。
逆にこのくらい連想が広ければ、何かを表現するときに
「リンゴと一緒!」
の一言で完全に伝わる状況が増えることになる。

でもそのためには、相手がどのような立場にあり、どのような知識セットを持っているか推察しなければならない。結局人の話を丹念に聞くことになる。「よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きて言ふを、おのづから人も聞くにこそあれ」とはこのことである。

一方で世界解釈を一つしか持たないとしたら、それが万能に思えてきてなんでもそれで切ろうとする傾向がある。私もそうだった時期がもちろんある。紙をたくさん重ねて鈍い刀で切っているようなものだ。一枚でさえ切れそうにもないのに、 それに相応しい道具とされていたから強引に切ってなんとかする。これで何とかなっている人はまあ小賢しいといえるだろうが、ちょっと不器用すぎないかとも思える。
世界解釈を一刀両断するのは、まあ本人の主観的にはできているつもりでもやはり拙い結論にしかならない。その典型例が陰謀論である。財務省悪玉論とかチャイナフォビアも、一面的にはそういう見方ができるとしても諸悪の根源と言い始めたらちょっとやりすぎだ。
というわけで、世界をうまく解釈しようと思ったら多面的に見る必要がある。そのためには一つのスキーマを振り回すのではなく、複数の有用なスキーマを獲得することが肝要である。

が、上記のスキーマ例を単なる蘊蓄と理解しているだけだとスキーマを得たことにはならない。
単に勉強して知識を得るだけでは educated な知識人で止まる。

知識人で止まることは悲しいことだ。見識や品行は、単に聞いたり読んだりした知識の広さだけでは「高尚」とまでは言えない。英語を学んでアメリカに留学したのに安直なフェミニズムに陥って日本を dis るだけのモンスターになるのは大変悲しい。マンキューを読む人もいれば、ぺスキンに没頭する人もいる。ヴィトゲンシュタインを読む人は大変な努力をしているだろう。彼らは荊棘の上に座って刺し衝けるほどの覚悟を持って学問に臨んでいるはずだ。しかし、彼らの生活を見るや、経済書を読みながら家計はぐちゃぐちゃで資産運用プランも立てられない人は大勢いる。医者が自分自身の健康を守らないことを「医者の不養生」と言ったり、「論語」を読んでいないのに「論語読みの論語知らず」と言ったりするのはこれのことだ。
正しい物事を正しいと認識する心と、その正しい物事を正しいこととして実際に行動に移す心は、全く別のものである。 これら二つの心は、時には同時に行われることもあれば、行われないこともある。
この差は何か?畢竟高尚な見識や品行は単に知識を広めることだけでなく、自己満足せずに物事の状況を比較することにあるといえよう。

ある分野に入門したら、その分野特有の考え方で世界を見ることを繰り返すのが重要である。この人たちは何を仮定し、何に着目し、どのように世界を解釈するか。これをうまく盗み取り、それを使って世界解釈を試すことができれば、その分野のスキーマを得ることになる。

得た知識を使って世界を再解釈しなおし続ければ多面的な理解が得られる。これを私は cultivate と呼んでいる。

中等教育からの飛翔

とはいえ、いきなりこれをやるのはまず無理なことだ。
というのも、学習するためには文字を読むことが必要であり、その文字の読み方がわからないところから学習が始まるからだ。要するに服屋に行く服がない状態である。

じゃあどうするか。日本の初等中等教育は、まず徹底的に知識体系を詰め込むことでこの問題を解決しようとした。これはかなり効率的だ。あとから気づいた人が自由に cultivate されることに期待しつつ、そうでなくても真面目に勉強しただけで educated な人が大量に輩出できる。世の中の仕事はほとんど定型作業だから別にこれでいい。

中等教育で基本的な知識体系を詰め込んだのち、大学の1回生から教養課程が始まる。これは講義形態をみればわかるが、明らかに cultivate しようとしている。そこで得た知識がどうこうではなく、考え方のフレームワークを体験させようという意図があるのだ。
とはいえ普通の高校生にこんなのわからないというか、発想がない。高学歴ほど受験勉強に最適化されすぎて過学習が起きているので、教養課程の講義から知識だけ吸い取ろうとして結局何も得られないみたいなことが頻発する。そりゃつまらないだろう。特に若くして効率厨になってしまった人は教養課程不要論を唱えがちだ。だがいわせてほしい。そういうやつのために専門学校というものがあるんだから、効率厨は全員そっちに行けばいいのよ。
教養課程のありがたみなんて30過ぎてからハッと気づくことが結構ある。でもそれでいいと思う。そういう伏線をしっかり仕込んで10年後に回収するシステムで全然いいじゃないか。
受験勉強のせいで学習の即効性が求められ、こういう遅効性の毒を飲まなくなってしまったのは大変心苦しい。もうここから教養人としての差は広がっている。

でも別にいいのよ。教養人が教養人であることを担保するのは、別の教養人からの承認や賞賛ではなく、教養が浅い人の発言との比較であり、そして「教養が欲しいけどなぜか身につかない人間」からの羨望と嫉妬である。断片的な知識を振り回してインサイトが浅い発言が流通すればするほど、教養主義者の価値は高まっていく。陰謀論もそうだが、国内政治は財務省悪玉論、国際外交はチャイナフォビア一本で切っていく woke が増殖するだけ、多面的な解釈と提案ができる人の発言はより重視されていく。
だから教養不要論者、特に古典漢文不要論者、歴史不要論者はどんどん増えていってほしい。その分だけ古典漢文歴史学を学んだ人の真の価値が高騰するから。こういう教養の維持には一定のコストがかかるのだが、ほっといても上がる株なら持っているだけでありがたい。古典漢文なんていらねえよな!うんうん!こんなの役に立たねえよ!いますぐやめよう!

教養の動的な意義

ここまで cultivate について語ってきたが、これでもまだ一面的だと思う。
「いやいや、世界解釈が増えればより理解が深まるし、発想が豊かになる。それでいいじゃないか……」
私は、この見方には一つ重要な視点を欠いていると感じる。ここまで語ってきた教養はすべて静的な観点からしか見ることができていない。
すなわち、「その知識経験が、いつ、どのように役に立つか」について語っているに過ぎないのである。それでは教養の真の価値を発揮したことにならないのではないか。

私は教養の本質は動的意義にあると思っている。獲得した知識の広さ、世界解釈の多様さがある臨界点を超えると、複利的に知識経験が増加していくのだ。しかもほぼ自動的に。
私はこれを複利的知識運用と呼んでいる。

複利的知識運用

最初は点的知識の集合体だった。それが有機的に結合して一本の理解を形成する。その理解の集合体を体系と呼ぶ。体系特有の世界観を悟ることで世界解釈を獲得するのだ。
いちばんはじめに世界解釈を獲得するまでは結構苦しい作業だ。まず点的知識がないからそこを吸収するのに時間がかかる。それ以降の作業も不慣れだ。
しかし2つ目は割と楽になる。1個の世界解釈を知っているので、その解釈で読みつつも違いを発見するように体系を取り入れていけば、いずれその世界に特有の世界解釈に気づくだろう。
そうすれば3つ目はそんなに難しくない。4つ目、5つ目はすぐできる。
西欧人に20言語を余裕で話す人が一定数いるのと同じだ。英語母語話者がフランス語を学んでからラテン語に習熟すると、西側のインドヨーロッパ言語が単なる方言に感じてくるらしい。最初は苦しいだろうが、次第に共通点と差異に目が向くようになり、あっというまに20言語を話せるようになる。
ここまでくるとあとは自動化される。日常的に交わされる会話や、取引先からの情報、ニュースの話題、Twitter、散歩中、食事中、なんでもいいのだが、要するに有効な知的スキーマの保有数が一定数を超えると起きている間の出来事から吸収できる知識経験が爆発的に増える。
キャッチできる話題が増えてインプットの種類が広くなり、それが知識受容体を増やしてさらなるインプットにつながる。学問スキーマを一定数獲得したあとは、学問スキーマ自身に勝手に語らせたらいくらでも知識が生産される。これが『複利的な知識運用』である。

普通は知識を開陳すると知識資産は減る。もう話すことない、誰かと会うために話題を仕入れなきゃということが起きうる。しかし一定のラインを超えると、喋り続けるだけで資産が太り続ける状態になる。複利的知識運用の運用コストは極めて低廉になり、むしろ過剰生産に困るくらいだ。

複利運用ポートフォリオに人の脳を組み込む

この手の議論になると、一昔前から『詳しい友達がいる』『知識人を雇えばいい』という反論があった。教養を身に着ける時間はない、金はある、人的にスケールすればいいだろうと。
ただ、これには大きな見落としがある。自分が詳しい人の話を正確に聞けることが必要であり、理解するためには結局自分が詳しくなる必要がある。この前提を欠くと、詳しい人が正確に話しただけで本人は勝手に誤解するし、悪意のある人に取り込まれたら普通に騙されても疑いようがない。

ところで、私は『詳しい友達がいる』『知識人を雇えばいい』という抗弁そのものには反対しない。むしろよく caltivate された友人が2人か3人いることは複利的知識運用の観点からも歓迎すべきことだ。なぜなら、手持ちのポートフォリオに他人の脳を組み込むことができるから。
株を売り買いすることそのものが趣味の人は別にして、単に複利運用するだけなら自己保有株のバランスを調整しつづけるよりも、軸を決めて主要株を何本かウオッチしつつ投資信託を組み込んだほうが安定する。それも性格の違う投資信託(不動産、債券、日本株、アメリカ株、資源国通貨など)をバランスよく保持していれば、あとは本当に放置しておくだけで金が増え続ける。
これを複利的知識運用の観点から実現するには、知識性向の異なる友人がそれぞれ勝手に知識探求をし、時々集まって成果を開陳しあうだけでいい。この複利的知的運用ポートフォリオに他人の脳を埋め込んだうえで、友好的・相補的・共利的な FTA が結ばれさえすれば、もはやその知識経済圏自体が複利的に知識をため込むことになる。

複利的知識運用の利子で生活する

じゃあ複利的知識運用でため込んだ知識はどうするんだ。蓄財するだけでモノやサービスと交換できないなら、金塊はただの光る棒にすぎない。
実際にはポートフォリオから出てきた結果はいくらでもある。もちろん仕事の役に立つ。ただそんなの当たり前のことだから論じないし、職場はこういうノウハウをすぐ蛇口化して給与に反映しないので気分が悪いから語りたくない。
それよりも面白いことがある。 実をいうと、本稿は自分で考えたところがほとんどない。 まさに知的複利生産の利子で書いている。正確に言うと文章のほとんどは誰かが言っていたことのつぎはぎだし、重要な論点の一つはとある「冒頭だけ異常に有名なため誤解されている古典」から適当にパクって書き直している。真にオリジナリティがあるとすれば「複利的知識運用」とか「知的複利生産」という言葉を発明したことくらいだろうか。(というか、似たようなことを書いている人はどこかにいるだろうけど、大して調査していないだけのことなのだが)
その「冒頭だけ異常に有名なため誤解されている古典」が何なのかを当ててニヤッとしたり、わからない人を馬鹿にするのが教養だというのは私の本意ではない。こういうまとまった論考を利子だけで吐き出せるところに教養の価値があるのではないだろうか。本稿にどの程度の実利的価値、文学的価値があるかは評論家に任せるとして、まるで淫夢厨が「アイスティしかないけど、いいかな」とか「すいません許してください!何でもしますから!」とか言いながら会話を成立させるのとまったく同じノリでこの文書が作成されたこと自体に一定の価値があるんじゃないだろうか。

知的 FIRE を達成し、豊かな老後に入った

ここまでくると、もはや知的 FIRE を達成したといってもいいだろう。知識原価は低廉で、加工機械の電気代はゼロ、生産力だけが勝手に伸びていく。規模の経済を達成し、あとは成果物を誰に向けて譲渡すればいいかを考えるだけだ。
私は、賢明に管理されるならば、教養主義は現在の視界に存在するいかなる代替的思想よりも、愛智の目的を達成するための手段をより効率的なものにすることができると考えている。教養とは知識を消費する意味でもなければ、これを節約する意義でもない。それは一個人格の経営と処理の義である。
もうあとは安泰だろう。あとは生産物をどう加工して売り出すかだが、本業は新規事業開拓部門なのでそのノウハウもたまりつつある。

正直いうと幼少期からこうなることを狙っていたが、まさか35歳でここまで来るとは思わなかった。若いころにちゃんと教養の授業に出て教授に意味の分からない質問を繰り返した甲斐があったというものだ。
その基礎になったのは、大学受験の対策をやりながら「教科書にはこう書いてあるけど実際のところどうなんだ?」と疑問に思って納得するまで調べたことだし、現代文の授業が眠くても国語便覧を熟読していたことが大事だったと思える。
さらにその基礎になったのは、中学生の時に真面目に勉強して9教科90点以上を維持したことにある。
それを実現したのは、小学生時代に親が宿題はだけはちゃんとやるように仕向けてくれたからだし、小学生は遊ぶのが仕事だといって外に放り出してたくさん遊ばせてくれたこと、そうやって遊びながら花の名前や機械の仕組み、社会のルール、数々の物語、どうしてそうなっているかを聞かせて「へえ、そうなんだあ」と思ったことが基盤となっている。
東大合格だけが目的となり、効率厨を発揮すると逆に教養からは離れていくだろう。もったいない、小学生のうちから塾に行くなんてもったいなさすぎる。というか東大合格すればあとは安泰なんていつの社会認識だろう? 現実的に「あとは安泰」になっている私からすると、目指すべきところが的外れすぎる。やはりコオロギを捕まえてカマキリが食事するところをじっくり観察するとか、どうしても暇すぎて雲を眺めながら意外といろいろな種類があるもんだなあと思ったりとか、好きな人の前でかっこつけるための恋文を研究するとか、そういう東大合格とは無関係な時間こそ複利的知識運用の基礎になる。
ああ、大変もったいない。だから娘ができても関東圏で青年期を送ってほしくないんだ。

なんかこの領域になると、なんでも面白く感じる。都合の悪いことがあるといちいち失望するのはちょっと心の余裕がなさすぎるんじゃないだろうか?「花見に来たけど桜が散ってしまったからもう見どころはない」などと言って去ってしまう。花の散り、月の傾くを慕ふことに趣があるのだけども。なんか付け焼刃の見どころを逃したとしても別の楽しみ方を模索すればいいじゃないか。

私はもう少しだけのんびり遊んでから、やる気が出たらいろいろ発表しようと思う。私の性格上、たぶんそのうち一気にエンジンがかかってギアがはまるだろうから、その時にアウトプットすればいいだろう。

でもやっぱり見ておきたい世界があるから、二分野ほど実地留学してきたいなあとは思っている。そのために点的知識の収集から始めなければならないのは結構な苦痛なのだが別にそれはいい。

利子で食っていけるおかげで、時間と心の余裕だけはたっぷりあるのだ。
ああ、教養人になれば、あとは安泰だ。

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