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フカイナヨル

9月2日の真夜中、正確には3日の暗い朝、わたしは2年前の同日に書いた手紙の下書きを読み返す。友人へ誕生日を祝う手紙だ。ベランダで夜風と灰色の空の匂いを感じながら書いていたのを覚えている。長い手紙だった。泣きながら書いた。それを1ヶ月後に友人に送った。彼女も泣きながら読んだ、と。

手紙を読む前、わたしはある告白をしていた。
お互い、ありがとうと何度も言葉にしたと思う。ふたりの人間が愛を抱くこと、それをどこか美しく尊く認識していたようだが、それが違うことを知った。一方通行の愛で満たされてきた自分には知りえない、どうしようもなく、ゆくあてのない悲しみだった。彼は「すきです」と言った。わたしは言えなかった。わたしは、わたしたちは同じ愛という言葉に、異なる意味を持たせていることを知っていた。彼のすきは限りなく透明で、わたしは祈りのようなものだった。彼を通してわたしはわたしを信じたかった。わたし自身の言葉だった。

よるはねむれない。
わたしがこたえうるなかで最も底に溜めてきたこと、この身体から奮い立った悍ましい呪いを掛け綴った言葉。それを言ってしまい、受け入れられてしまい、共有されてしまった。深夜1時の生ぬるい翳りの世界で、ふたりの人間に起きたこと。朝になりようやく眠る。昼になり返信を読む。夜のことを考える。何にも集中できない。それは淡い恋によるときめきや恥じらいの期待ではなく、また、みえない酸素の連鎖のような綺麗な優しさとあたたかい慈しみでもなかった。それは煮えたぎった毒々しい地獄との対面と克服の始まりだった。わたしは、ドアを開いてしまった。もう、戻れない。取り返しのつかないことをした。これを望んでいたが、覚悟はあったのか。あのときわたしには勇気があった。ふたりの人間の間に存在する流れ、タイミング、勢い、それらを掴み切る勇気があった。でも覚悟があったかがわからない。なかったように思える。

2度目の夜がやってくる。横に眠る妹が何か怖いと一緒の布団に入ってきた。明るい音楽を1番小さい音量で枕元に置いたら、20分後には寝息が聞こえる。わたしは妹と自分の額を合わせられるように彼女をそっと抱きしめた。数十秒の祈りが涙に変わる。声を殺し、瞑った目から涙を流した。自分のために泣いたのはいつぶりだろうか。

己の希望を望むことは、まだ、身の丈にあってなかったようだ。

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