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わたしのための映画

『夏時間』ユン・ダンビ監督

わたしのための映画だった。
すべてすべて、ああ、そうだよね、わかるよ、とただオクジュの隣で一緒に涙を流したかった。

彼女は何かをみつけて抑えきれず、2階に駆け上がり必ず閉めていたドアを開けっぱなしに初めて泣く。孫として、娘として、姉として、人間として、彼女が演じなければならなかったあらゆる自己として、自分を抱きしめて泣く。あのつらく止まらない泣き方を観られるとは、まだ映画を信じていてよかった。父と弟は、背中を撫でるわけでもなく、無言で隣にいてあげるわけでもなく、なにもしない。なにも、できない。残された者ができることはなく、互いに寄り添うこともしない。ここには記憶も忘却もない。喪失を乗り越えることもない。それができた人間ではなく、そのスタートラインすら見えない人間がいる。


誕生日ケーキとバースデーソング。
あの幸せの空間に涙でる。ああ、これはなにかを失った人間の映画だ… 映画を語る上で観客の共感は必ず必要だとは思わないが、この映画には自己を投影せずにはいられない。映画において共感が何を指すか、それは物語の文脈に関係なく、普遍的な優しさや幸せの空間が画面に現れたとき、どれだけ観客が特別な負の感情に持っていけるかが共感のラインであると思う。田舎の大きなおうちでケーキの蝋燭に照らされた皆んなの笑顔と夜中に響くバースデーソング。それぞれが家族をとても愛しているとか、親しいとか、そんな陳腐な描写はなく、むしろ各々が他の家族もそうであるように、孤独に年相応の生き方をしている。彼らにとって、そして多くの人々にとって日常で昇華できるこの画面で、蝋燭の小さな灯りが観客の中にある画面に現れなかったものを照らしたとき、素直に涙がでた。


ひとつのロングショット。
オクジュが自転車で走るロングショットで音楽がなかったことに気づく。あの戸惑いと悲しみと諦めを含んだ表情、なにかをわかってしまった顔だった。すごい速さで自転車を漕ぎ、風の音がうるさい。世界をかけるはやさに自由を感じることも過去を思い出すことも涙することもあるだろう。未来を進もうとすればするほど、過去が走馬灯のようにかけてみえる。オクジュはあることを悟りそれは恐らく子供時代の終焉だった。


葬式までの車、まだ眠たい弟の頭をそっと自分の肩に乗せる姉。ふたりはひとつ見つめ合うと、ふたつ目を逸らす。そのあたたかなまなざしがずっと続けばいい。そしてラストシーンは、明確な祖父の不在が映し出される。それはおじいちゃんが存在したことを証明している。けれどそれは決して希望では、ないんだよ。そうなんだよね、わたしの心のオクジュ。



いつもカメラは動じず一歩ひいて彼らを映しだす。

空っぽの家。
外に出された家具。
狭い車。
ものを捨てること。
ひとつの家を失うこと。
離れて暮らすこと。
隣で眠ること。
駆け抜ける自転車。
目で追いかけるあのひと。
帽子を被った朗らかな笑み。
ゾウさんのぬいぐるみ。
喧嘩後のプチトマト。
ミシンと日差し。
ふたり。
でも介護の肉体的、精神的、経済的な限界。
そしていくつもの滑らかな終焉。



わたしは、いつも、すこし、つらい。
わたしは、愛されているの?

オクジュはそのまなざしで周りの大人に訴えていた。気づいてくれたのはおじいちゃんだけだった。

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