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米予備選の洗礼なき指名の功罪と浦上四番崩れを学ぶ

グーテンターク!皆さまこんにちは。フランクフルトのYokoです。スモモのツヴェッチゲンが出回る季節になりまして、ご近所のとあるお宅のお庭にもたわわに実っておりました。これはかなり実が酸っぱいのでケーキや甘いデニッシュ系の焼き菓子やジャムなど砂糖とあわせて食べることが多いです。

さて、本日はこんな記事をみつけて読み、大変勉強になりました。

私は副大統領就任以来ハリスさんのリーダーシップには疑問を持っていました。政治信念も特にない人だと思っています。副大統領として何もしていない。(これは世界的にそういう人がリーダーになりやすい昨今で驚かない)一方でメディアもキャンペーンに加担して鵜呑みにできず。なのでこの記事は大変参考になりました。

ただひとつだけ、カマラのランニングメイトのカタカナ表記がドイツ語読みのワルツさんでよいのかは気になります。アメリカ風ならウォとなるようで後ろもズの可能性高。副大統領になれば正式には外務省で統一するとは思いますがメディアがワルツで押し切るとワルツで定着しそう。


さて、別件すぎて恐縮ですが、昨日読んだこちらの記事の続きです。

一番印象に残った部分に「浦上四番崩れ」の言及があり、気になったので調べてみることに。以下引用(太字は筆者による強調)

このようにして徐々に、「もの言う長崎」が「祈りの長崎」から枝分かれしていった。もともと浦上には隠れキリシタンの歴史があり、江戸末期から明治にかけて起きた「浦上四番崩れ」をはじめ、厳しい弾圧を4回も経験した。島原や五島でも、数百年にわたり信仰をあきらめず、抵抗を続けてきた過去がある。祈りと抵抗、という長崎のキリスト教徒が持つこの2つの面が、原爆被害の受け止め方にも表れているようにも見える。

最後の大検挙 浦上四番崩れと長崎各地での弾圧
という文章を見つけました。国交省のデータベース上にあるものを引用します。

https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001553819.pdf

最後の大検挙 浦上四番崩れと長崎各地での弾圧
パリ外国宣教会による秘かな布教活動
信徒発見直後から、長崎奉行所の監視の目を潜り抜け、浦上村をはじめ五島列島等長崎各地のキリシタン集落の指導者が大浦天主堂へ訪れました。また、宣教師達も各集落を密かに訪れて布教活動を行ないました。特に多数の潜伏キリシタンがいた浦上村には、聖マリア堂、聖ヨゼフ堂、サンタ・クララ堂、サン・フランシスコ・ザベリオ堂の四つの秘密教会堂が設けられました。

浦上四番崩れ
1867 年、浦上村のキリシタンが、檀那寺である聖徳寺の僧侶の手を経ずに死者を葬ることが相次ぎました。このことがきっかけとなり、最終的に地元の潜伏キリシタンが庄屋に対して自らの信仰を表明する事態となりました。キリシタンの存在が表面化すると、密偵による調査がなされ、その情報は江戸に報告されました。
1867 年 6 月、第 125 代長崎奉行 徳永石見守昌親は、170 人の部下を秘密教会堂に突入させ、指
導的立場にあった高木仙右衛門をはじめとした 68 人を捕縛しました。その後も逮捕者は増え、投獄された者には厳しい拷問が加えられました。この事件に対しプロシア領事をはじめ各国領事が奉行所に抗議しました。フランス公使が徳川幕府最後の将軍徳川慶喜と直接交渉にあたった結果、キリシタンたちは厳しい監視の下に置かれ続けたとはいえ、牢から出ることができました。
大規模な弾圧
厳しく扱われたのは、浦上村のキリシタンだけではありませんでした。幕末から明治時代(1868-1912)の初期にかけて、外海や五島列島等各地のキリシタン共同体は弾圧を受け、捕らえられたものには激しい拷問が加えられました(五島での弾圧は五島崩れと呼ばれています)。江戸幕府が明治政府に変わった後も、徹底的なキリスト教の禁止は変わりませんでした。年号が明治となった最初の年の 1868 年 11 月、五島列島の久高
島で、特にひどい事件が起こりました。「牢屋の窄」と呼ばれる 20 平米ほどの空間に約 200 人のキリシタンが 8ヵ月にわたって密集状態で閉じ込められ、激しい拷問を受けました。幽閉中、このうち 42 人が亡くなりました。このような非道な弾圧について知ったイギリス公使は、1870 年実態調査のために五島を訪れました。
「旅」 一村流罪
1868 年、新しく九州鎮撫総督に着任した沢宣嘉は、部下井上馨とともに長崎に到着しました。彼らは浦上キリシタンの取調べを行い、報告書を作成しました。この報告をもとに行われた御前会議により、浦上キリシタン全村総流罪の処分が下されました。長崎に派遣された太政官参議の木戸孝允は、中心人物 114 名を萩・津和野・福山藩に流配しました。この浦上村のキリシタンへの処分は、西洋諸国に衝撃を与え、やがて深刻な
外交問題へと発展しました。
イギリスやフランス、アメリカの激しい抗議にも関わらず、1870 年 1 月には男子 700 人とその家族までもが流配されました。あわせて 3,394 名の浦上キリシタンが 20 藩に配流されました。流配されたキリシタンたちは各地で改宗を迫られ、拷問されたり重労働を強いられたりしました。明治政府に対する各国からの繰り返しの帰還要求や待遇改善要求は無視されました。この約5年に及ぶ苦難は「旅」として知られています。この苦難の中でも多くの信徒が信仰を守りぬきました。流配先で 613 人が亡くなり、浦上に戻ることができたのは 2,911 人だけでした。

他にもカトリック長崎大司教区のサイトからキリスト教信徒からみた四番崩れについてのまとめもあり迫害の苛烈さと苦難の歴史にふれることができました。2017年7月16日 浦上四番崩れ150周年記念祭(秘密教会の保護の聖人行列とミサ)の様子を綴ったブログです。

https://www.nagasaki.catholic.jp/?p=6771

長崎市のサイトには長崎の教会群その源流と輝き
●信仰の表明による復活と弾圧【弾圧】という文章を見つけました。

密告がきっかけの三番崩れまでと四番崩れとの決定的な違いについてこのように書いてあります。

慶応4年(1868)7月15日の明け方3時頃、長崎奉行所の捕り手達は、土砂降りの雨の中、浦上キリシタンの主要人物の寝込みを襲い、次々に逮捕。桜町の牢へと入れました。浦上四番崩れの始まりです。それまでにも「浦上崩れ」と呼ばれる弾圧はありましたが、一番から三番までは噂や密告に端を発した検挙でした。しかしこの四番崩れは、信仰を表明したことが原因となっての検挙でした。問題解決のないまま、翌年、江戸幕府は倒れ、明治新政府が樹立。明治新政府に引き継がれた末、「浦上一村総流配」となったのです。流配先の牢獄では、厳しい拷問の中、信仰を捨てるよう責め苦しめられました。

幕藩体制末期に地域で解決できず先送り、徳川慶喜、木戸孝允、井上馨、大隈重信など当時の日本のトップが対応したこと、御前会議の決定を経るなど非常に高度な政治の意思決定プロセスを経ていることに改めて驚きました。キリスト教信者の苦難は勿論ですが、外圧にさらされながら封建制から近代化に進む日本政府の苦しみが垣間見える事件だなと。長崎の祈りと抵抗の歴史は重層的ですね。日々勉強。

さて最後に本日の晩御飯です。

アカウオ、ロートバルシュをにんじんと一緒に煮込みます。マスタード入りのクリームソースをバスマティライスと絡めて美味しくいただきました。


それでは、最後まで読んでいただきありがとうございました!
Bis dann! Tschüss! ビスダン、チュース!(ではまた〜)😊

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