【読書感想】『太陽の男 石原慎太郎伝』〜家長であり、価値紊乱者であり続けたクリエイターが遺したもの
グーテンターク!みなさまこんにちは。フランクフルトのYokoです。
猪瀬直樹さんの『太陽の男 石原慎太郎伝』を読んだので、今日はその感想を書きます。
この本は石原慎太郎という人の素顔とクリエイターとしての真価を世の中に知ってほしい、猪瀬さんのそんな願いが込められた本です。石原さんの人生を追いながら、石原作品を分析、評価することが本書の軸となっていることに作家としての石原さんへのリスペクトとともに後世に残すという使命感を感じました。
石原慎太郎という作家が誕生するバックボーンにはじまり、カミュなどフランス文学の影響が丁寧に語られた上で、石原作品について丁寧な解説と再評価が与えられます。キーワードは 価値紊乱(びんらん)。
この価値紊乱という言葉は三島由紀夫が石原慎太郎を言い表した「道徳紊乱」を踏まえて自らアレンジした言葉。この紊乱者の看板を石原さんは掲げ続けた。三島に見出され、励まされ、互いに切磋琢磨した二人の物語は天皇制、国家観の違いで終わりを迎えても、石原慎太郎にとって三島由紀夫は自らの本質を言いあてることのできた稀有な存在でした。
石原慎太郎の教養(フランス文学や哲学)やカミュにインスパイアされた海と太陽、不条理と反抗の世界を自ら構築を試みる若き作家に多いなる期待と励ましを与えています。この時三島は石原が知性を超えた何かを「無意識」に持ち合わせていることに三島は自分にないものを微かな嫉妬とともに感じ取ったのではないかと。
一方で、石原慎太郎が圧倒的に優位だったのはスポーツの世界。三島由紀夫は悲しいかな反射神経がなく拳闘や居合も中途半端。観念としては完璧な世界なのに三島由紀夫は習うトレーニング。圧倒的な規律と努力の賜物で得たものですが、相手のあるスポーツ、実践ではそのような訓練や反復で指導できないもの、本能の世界がある。それを石原慎太郎は幼い頃湘南遊んだ海辺やサッカーやヨットで自然に獲得していくのに対してサッカーは三島由紀夫は幼き頃、家で祖母の過剰な干渉のもとで運動も殆ど過ごし、母と祖母との緊張関係に置かれて自由なのは本と創造の世界。学生時代も身体的なコンプレックス先にきて、それを克服するのだけれども、この圧倒的な石原の情念へのこだわりと三島の観念へのこだわりの差となり、亡国や憂国の想いはそれぞれの行動の違いにも現れていくわけで。
ある時はそのほとばしる才能に圧倒され、ある時は2人ともにブルジョアで自信満々というイメージと裏腹な素顔に驚き、時に切なくなりながら、石原慎太郎と三島由紀夫の素顔と彼らが苦しんで産み出そうとしたものを解き明かしてくれる本書にとても引き込まれてしまいました。
なので読書はとても楽しくて、途中でもツイート。
読了後の感想もツイートで呟きました。短文は難しいけれど心に響いたエッセンスを詰め込みます。
思索の深い部分で共鳴しあう石原慎太郎と三島由紀夫は、天皇や国家観を巡り、超えられない川が横たわることに気づく。それは二人の太陽と海が、あるがままの自然と観念の違い。三島由紀夫は自決という形で憂国の日本を完結させてしまったけれど、石原さんは家長の責任感から、戦後の社会で、制度の中で飼い慣らされそのことに無自覚なまま熱狂し、あるいは退屈する人々に言葉を発し続けた。また行動し続けた。
価値紊乱に加えてもう一つ、重要な石原の行動原理、それが「嫌悪」だ。特に猪瀬さんはそれを作品から読み解いている。
この嫌悪という情念があっての、あの石原慎太郎の様々な発言や物言い、そして活動だったのだ。
そして石原さんが、晩年ついに猪瀬さんにこう告げた 「日本を頼む」と。真顔で、頭を下げ、三回も。
猪瀬さんは石原さんからバトンを受けたとき、三島由紀夫からのバトンも一緒に受け取ったのではないかと思う。近代の超克という大きなバトンを。
そんな猪瀬直樹さんは今は参議院議員でもある。作家であり、同時に国会議員であり、価値紊乱者として行動の人であり続けている。そんなクリエイターとしての猪瀬さんの活躍をこれからも楽しみにし、応援している。そして私自身も価値紊乱者であるために、心の中の情念をしっかりと言葉に表して価値紊乱していきたいと思う。新しい価値創造の一歩として。
それでは、最後まで読んでいただきありがとうございました!
Bis dann! Tschüss! ビスダン、チュース!(ではまた〜)😊
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