「空気を読む」ことを批判すると不愉快に感じる人がいるのはなぜか。
それは、「空気」を読むには良い面もたくさんあるからです。
集団をコントローするのに最適なのが「空気」ですから、そこに属する人が恩恵を受けるようなことに対して空気を読んでいればそれは「良い」空気にもなります。
空気を読むことは他人が不快な思いをしないようにという配慮でもありますし、「感情移入」(私が良いと思うものはあの人にとっても良いに違いない、と信じる気持ち)は「空気」の特徴の一つで、日本人が特に得意な「共感力」でもあります。
つまり、物事の全てにいい面と悪い面があるように、空気を読むことにも両面があるのです。
私は、そのような良い「空気」としての働きとそうでない働きを一緒にして考えるのはよくないと考えています。この二つは同じ「空気を読む」ではないのです。
何が違うかというと、ポイントは批判的にその行為を考えたときの「異論」の種類ではないかと思っています。
基本的に倫理的、道徳的なことにおいて「空気を読む」は前向きな威力を発揮しますが、それと、それ以外の場における「空気を読む」を一緒にしてはいけないけません。それに「それ以外」のケースはかなり多くあります。
その多いケースを無視して、それ以外の様々な場面での「異論」を精査せずにそれが真実であると思うことこそが危険であると知ること、一般的に「空気を読む」は良い事もある。とする議論は危険ではないかと思っています。
「空気を読む」という行為がどのようなものであるのか、本当は日本人である私たちもしっかりと説明することができるべきでないかと思っています。
私もまだまだ勉強中ですが、少しずつ「空気」と教育(特に教師)の関係を紐解いていきたいと思っています。
Teachers of Japanではティーチャーアイデンティティ (教師観)の発見を通じて日本の先生方がもっと自分らしく教育活動に専念し本来は多様である「教師」の姿を日本国内外へ発進しています。日本の先生の声をもっと世界へ!サポートいただけたら嬉しいです。