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「できたらすごい」 けど のあとの空気

私は教師時代に色々と提案をして管理職や同僚に「できたらすごいけど、、、」と言われたことが2回あります。

1回目は「それはできたらすごいけど、他の学校でやるもの」といわれました。
2回目は「それはできたらすごいけど、うちでは無理」でした。

学校にお金がないことも、人が足りないことも、生徒に何ができてできないか、など知った上でもっと良い教育を提供するのはと考えて提案するのです。別に行き当たりばったりで伝えているわけではありません。

でも答えは即答でした。

さて、この二つの答え、似てると思いませんか。

できたらすごいと思うのに、どうして「どうやったらできるか」の議論にならないのでしょうか。

これも教師と空気の関係性の一端だと考えています。
「空気」がうまれるとされる「世間」という環境には「排他的」や「所与性」という概念があります。排他的と言うのは文字の通り異なる存在を排除する性質で、所与性とは「世間を自分の力で変えることはできないのだ」という諦めににた考えです。西洋社会では受身な態度として敗北的なアイデアとして考えられていますが日本では歴史的・伝統的システムでよく使われる考え方です。(参照:「空気」と「世間」鴻上尚史)

かくいう私も、「うちでは無理」と言われてそれ以上は戦わないという「空気」を読んでいました。「ここでこの人(たち)にこれ以上言っても無理」と言う違う所与性を見ていたのかもしれません。

あなたは生徒が「その問題できたらすごいけど、私は無理」と言っていたらどう指導しますか。

「できたら、すごい。やってみようか!」「どうやったらできるかな。」の会話が教師の間でもが溢れる学校になったらいいですね。


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