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「できるには派」と、「できるかな派」の戦いに疲れた話(ほぼ愚痴)

自分に関心のあるもの、絶対やってみたいこと、できたらすごく面白そうだと思う事は誰にでもあると思います。そしてそれができるには「どうすればいいか」と考えるはずです。

学校ではそれは私にとって、授業であり校務です。生徒が将来必要な能力が身につくにはどのような授業や学校活動が「できるには」どうすればいいかということについて一貫して考えます。

そのような私を苦しめるのは、「できるには」ではなく「できるかな」という態度で最初から頑なに挑んでくる同僚です。今日もその種の方との議論にすっかり消耗してしまう出来事があり、noteに書き残す事にしました。

「できるには派」と「できるかな派」との間には計り知れない程大きな溝があります。

「できるには派」にとっては上位目標が最優先事項です。生徒にこのような能力をつけたい。生徒にこのような経験をしてほしい。そのためには何をすればいいかが最重要事項。そのため、障害が出てきた時は、どうすればその障害を解決して最重要事項を優先できるかを考えます。

しかし、「できるかな派」の方々は管理職や保護者からクレームが出ない事が最上位目標です。どのような障害やクレームの可能性があるかを全て洗い出し、一つずつ説明責任が果たすことができるかを検討していきます。中には考えるのも馬鹿らしいような細かいことや当たり前なこともあります。下から出来ることを積み上げていって、出来るものを提供するので、見かけは整っていても「何のためにそれをするのか」が不在の産物ができあがります。でも、「できるかな派」の目標は達成されているので彼らは満足なのです。

保護者からのクレームは実際に色々と日常的にあります。ちょうど昨日も一件ありました。教育委員会が絡む保護者クレームだったので時系列で全て報告をしたり家庭訪問をしたり、本当に大変で、保護者クレーム対応には膨大な労力と時間を要するのは事実です。しかし、「保護者に文句を言わせない」が最上位目標になると、「そんなことで文句を言う保護者なんていないだろう」と言うレベルの些細なことににまで気を使わなければならず実現範囲を大きく狭める結果になります。

さらに公立高校と言うのは、人事異動があるため担当者が頻繁に変わることも日常茶飯事です。今まで担当したことのないプロジェクトを全く背景を知らない人が担当することもよくあります。知らないまま校務を担当するのですから、無難な方を選ぶ確率は遥かに高くなります。

実際、公立学校で続いている行事はこの繰り返しなのです。私立学校や特別指定を受けない限り、革新的な事が起こる可能性はとても低いのです。

今日はその戦いにすっかり疲れてしまう一日でした。教師も学校も理解するのはまだまだ難しいなぁ。

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