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批判的思考 VS 空気を読む力

「批判的思考が低い日本の教師に、批判的思考を育む授業はできない」という記事を見たことがある人も多いのではないでしょうか。ニューズウィーク日本版に出ていた以下の記事です。私も同様のことに問題意識を持っていたので、そういう視点を発信している方がおられることに驚きました。

そして、今日またこの記事を二度目に目にしてまたはっとしました。
それはこの箇所↓。

風変わりなことや批判めいたことを言うと嫌われるので、社会に対する関心、批判精神が薄れるというのは道理だ。

教員の間でも風変わりなことや批判めいたことを言うと「嫌われる」のです。教員の間にイノベーションがないことも驚きではありません。批判することをやめるように直接的、間接的に教わっている子どもたちが政治や社会問題への関心が薄いことも説明ができます。

大学院での学びを始めて、日本を改めて客観的に見る中でこの空気感は何だろう。「空気を読む」って何だろうと考えています。空気を読む力は日本独特のもので、それにはいいところもあるはずだと私は思うのですが、どうしてもネガティブな面ばかりが目立ちます。そして、教育現場においても「空気を読む」ことが生徒の自由な学びを阻害しているのではないでしょうか。

生徒ばかりか、教員にも批判的思考が足りていない点については、以前、国語教育の視点から書きました。

日本では「批判的な見方」は教えないのです。足りてないのではなくて、そもそもないのです。

批判的思考は基本的には「西洋」の考え方です。「空気を読む」力とも関連しますが、批判的に思考していたら空気を読む日本ではメンタルをやられてしまします。なぜなら嫌われ者をずっと演じないと行けないからです。だから日本では「空気を読む」がゆえに、導きだされる結果が科学的に根拠がなかったり、論点がずれていたりしても物事が進んでいくのです(忖度)。日本の社会で大事な能力観は批判的にならないこと、つまり他者への共感力を育むことが日本の大切な価値観です。だからこそハイコンテクストな社会を実現しています。

今後、批判的思考を持つことは日本でどのような意味を持つのでしょうか。空気を読んでいたら批判的な思考はできないのでしょうか。

さらに考えていこうと思います。
以上、メモでした。

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