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「空気」は辻褄が合わないこと

どこかで書いたかもしれませんが、「空気を読む」とは「自分の意見と異なることを選択すること」です。(Hidaka & Kosugi, 2012)

もし「空気」と自分の意見があっていたら空気を読む必要はありませんし、「空気」の存在にすら気がつかないでしょう。

私はアメリカの大学院で日本の教師としての難しさを英語で大学の教授や同僚、クラスメイトに説明するときに学校における「空気」の存在に気がつきました。英語という論理的な言語で話していると自分が理不尽なこと、非論理的なことを言っているなとわかるのですが、それを「空気」として落とし所にしていたんですね。(ま、空気を使ってもアメリカ人に理解してもらえるわけではないのですが。)

なので、基本的に「空気」は辻褄があっていません。

例えば、
・英語のスピーキング中心の授業でなぜ筆記考査が必要なのか。
・生徒が辞めたくないと言っているのに、どうして辞める方向で学校で話を進めていくのか。
・休んではいけない日はないのに、どうして休めないのか。

「空気」の最大の脅威は辻褄があっていないことに気がつかないこと
です。

「空気の存在に」気がつかない人は、自分の思考が「空気」と一致している人です。また気がついていても読むことに抵抗のない人は、「空気」と自分の価値観が一致している人(例えば、英語のスピーキング中心授業でも筆記考査をするべき、と言う考えなど)、または自分の声を聞くことに慣れていない人や自分の声を抑えこんでいる人です。

それで幸せに働いたり、生活したりできればいいですが、今の多様性の時代に、また学校でも個性、自主性、多様性を謳う時代には難しいのではないでしょうか。

あなたにも辻褄が合わないと思った経験ありますか。もしあれば、あなたも気がついていますね、学校の「空気」に。


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