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日々読み #20

3/12 晴れ

旅行から帰ってきて初めての朝だ。
今回は2泊3日だったけれど、とっても内容が濃かった。昨夜は充実感と疲労感が同時にあって、布団に横になった途端、強烈な眠気が襲って意識を失うように眠った。意識よりも体が自分の住まいに戻ってきたんだと実感したようだ。
深い眠りのまま、一息で目が覚めた。

旅先では枕が合わなかったり、毛布が少しけばけばしていたことがいちいち気になって眠りが浅かったのに。
やっぱり自分の家が1番安らぐのだろうなあ。
自分の中に眠る「動物」的な本能がそうさせているのだろう。
自宅で生活できることは案外、人への影響が大きい。そのことをまた、実感した。


3/13 くもりのち雨

妻は仕事。ぼくは休みだった。
妻は忙しそうだ。妻が仕事に集中できるように、少しだけサポートした。
やってみると、食事や食器洗い、洗濯、たたみ物など普段ぼくが仕事に行っている間の家事が多いことに気づく。妻が何も言わずともやってくれていたのか。
ふと頭に歌詞が流れた。
「言わなくてもいいことを言って、言わなきゃいけないことは言わなかった」
多分、失恋した時の歌の一説だろう。
タイトルも、アーティストもわからない。けれどなぜか記憶に残っていたのだと思う。
妻に言わなきゃいけないことがたくさんある。
ちゃんと伝えなければ、いつか積もり積もって取り返しのつかないことになってしまうかも。


3/14 晴れ

看護でよく出会う言葉として「安楽」がある。
心地いいとか、普段の少ないとか、痛みが強くならないようなという意味合いで使われていて、学生の看護技術の教科書にはよく載っていたのが思い出される。
学生の頃自分もよく使っていて、その当時は安楽を「いい感じ」「気持ちよく」といった大体の用途と使い勝手がよいこともあって使っていた。
現場に出るようになってからも時々使っていたけれど、
よくよく考えてみると「安楽」の意味を深くまで考えることはなかった。
大体の意味は検討つくけれど、一言で表すのはおろか、どんなケアが安楽をもたらすかというのも明示しにくい。
看護師をはじめとして案外まじまじと考えたことがある人って少ないんじゃないか。悪い言い方をすると「なんとなく」なのかもしれない。それでも自分が「安楽とはなんたるか」を人よりも知っていなければ安楽は手渡せない。
自分が気づいてないもの、知らず知らずのうちにやっていること、むしろ安楽だと思ってやっていたことが安楽でない場合もあるだろう。
一度安楽を考える必要はありそうだ。
まずは自分の安楽を考えなきゃな。


3/15 晴れ

最近いつもより早めに出社することを心がけている。
少し前まではなるべく時間ぴったりに行く方が良いと思っていた。

時間ぴったりに出て、定時にはぴたっと帰れる、そんな人が優秀な人だと思っていたからだ。

でも自分には少し真面目すぎるぐらいにゆとりをもって出勤して、確認ごとや予習やおさらいをする方が合っているようだ。

この「合う」という感覚は肌に合うとか、快か不快というような感覚で、理論的にというよりも実感とか感覚めいたものだ。
こうしてなんだか堅苦しく言ってはいるけれど結局はなんとなくなんだと思う。それでも27年間は自分をやってきたのだから、それなりに自分のなんとなく肌に合うということはそれなりに理解できているはずだ。

こうして日記を書いているとやれるやれないという二項対立より深いレイヤーで、肌に合う、合わないという二項対立のレイヤーがあるんだということに気づいた。
合わないことを続けることほど、疲れることはない。
自分は真面目な方が肌に合うのだから、明日もきちんと生きよう。


3/16 晴れ

今日は事務所で草取りをした。
草取りなんて業務とは全く関係なくて、別にやらなくてもいいことだ。それでも今日は草取りを自分からした。
誰がやってもいいけれど、多分誰もやりたがらないこと。そしてみんな気づきながらももう少し先延ばしにしたいことを自分から選びとって行動できた。

少し前までは自分の業務ならやるけれど、他のことはそこまで気にならなかった。いや、気にしていなかった。

それでも目線を変えてみたら、「誰がやってもいいけれど、多分誰もやりたがらないこと。」がいくつもあることに気づく。知らんぷりしてもいいのだけれど、そこにはあるのだ。
今回は草取りだったけれど、業務の中でもそういう仕事はたくさんあるはずだ。常に周りを見渡して手が足りないところに手を貸したり、加勢したり。
すごく当たり前のことなんだけど、意外にやり続けるのは大変だったりする。
それでもそれが呼吸をするようにできるようになったらかっこいいと思う。
かっこよく働きたいよね。見た目じゃなくて、姿勢とか佇まいでかっこよく。


3/17 晴れ

今日も草取りから始まる日だった。今朝に雨が降っていたようで土が柔らかい。春の雨をたっぷりと吸い込んで、大きくなろうとしている草に生きる力を感じる。

今は高さ2センチほどのかいわれ大根みたいな芽たちだけれど、夏には屈強な根を張り、茎も葉も見違えた姿になり、僕らを困らせる。
目の前の小さな体に詰まった生命力の大きさにどきっとさせられる。

今、自分は看護師として働く傍ら、文章を書いたり、写真を撮ったりしている。まだまだ人に誇れるような代物ではないのかもしれないけれど、こうして続けている。それらは目の前の小さな草花と同じぐらい小さな存在かもしれない。それでも小さな芽は確実に出てきていて、自分の思っている以上の生命力が詰まっているかもしれない。その小さな体に詰まった力を信じて、あとは枯らさないように大切に育てていくだけでいいのかもしれない。


3/18 雨

今日は雨。雨の音を聴きながら妻と一日中家にいて過ごした。
今日は以前買った「庭とエスキース 」という本を読んだ。その本は著者が北海道に住む1人の老人と過ごした時間とその中で感じたことを40点の写真と共に綴った本だった。「他者と関わること」、「生きること」、「写真を撮ること」の意味が詰まった本でとても良かった。今の僕のためにあるような感覚すら覚えてしまうほど深く残る作品だった。
まだ言語化しきれないところが多いから繰り返し繰り返し読むことになりそうな本の一冊ができて、嬉しい。



3/19 晴れ

朝から張り切ってパスタを作ったらしょっぱいパスタができた。寝ぼけていたからか、茹でる湯に塩を入れすぎたようだった。
パスタは手軽で簡単な存在だけれど、少し分量を間違えると一気にしょっぱくなったり、塩味が足りずにぼやけたり、パスタが少し固かったりと成功と言える幅自体は狭くて、案外難しい。でもその狭さが楽しさの一つでもある。
今回は慣れが出て、失敗したけれど次はちゃんと計って美味しいものを作ろう。
今日もまた「ちゃんとやることの大切さ」を教えられた気分だなあ。

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