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日々読み #52


10/23 晴れ

今日は予告なく訪問予定が急に変えられていて、少し焦ったけれど訪問まで少し時間があったから準備して臨めた。
こういう試されてるような時に自分の負けず嫌いが発動して、頑張るのは昔からの癖だ。

焦っているとか、動揺しているとか悟られないように、思われないようにしたい衝動が出てくる。

いつもよりどっしりと平然と、席を立つ。訪問の支度をして、挨拶をして出ていく。
余計なことは考えずにやることに集中する。いつも以上に。

こうやって振り返っていると、「なんでそんなにいじっぱりなの?」と、思ってしまう。
ポケモンなら攻撃↑特攻↓。完全に物理攻撃型の脳筋ポケモンだ。

根っからのいじっぱりはまだしばらく続くのだろうか。


10/24 晴れ

利用者さんに登山をやっていた人がいる。
大きな山になると頂上に近づくにつれて険しくなり、クライミングをしなければ山頂に到達できない程になるという。その方にクライミングの話をきいた。
クライミングは恐怖との勝負で恐怖に飲まれたら、立ち所に恐怖が勝ってその先に進めなくなるという。
恐怖を前にこわくならないためには「興奮する」のが大切だという。
昔、ラグビーの選手は試合前の恐怖に勝つために、みんなで大泣きするというのを聞いたことがある。それも一種の「興奮」なのかもしれない。

恐怖を前に興奮して、動物として臨戦態勢に入る。太古の昔から動物である僕らがしてきたことを実践しているのかもしれないと思った。ただ興奮しすぎると客観性を失って、選択を誤ることがあるから塩梅が大事だという。
冷静と興奮の最中の中動態みたいな感覚が大切だったりするらしい。
中動態でいることは何にでも大事な感覚なのかもしれない。

山に登るのは動物としての自分を取り戻したい欲求もあるんじゃなかろうか。理性で押さえ込んだ社会的な私と本能剥き出しな動物的な私。どちらか一方ではなく、取り戻すために人は山に向かうのではなかろうか。

10/25 晴れ

少しずつ家の中が整ってきた。
9割ぐらい妻の活躍によるものだけれど、整った環境でこそ休息は取れると再認識した。
散らかっていると「ああ、これも片付けなきゃ」「これは週末にここに動かしたいな」と考えようとしていないのに、頭のすみで考えてしまう。
常にアイドリングしている感覚というのか、脳に刺激が入り続けている感覚になる。

日に日に整っていく家の中に連動するように、脳に走るノイズの量が減っている気がする。
体を整えるだけじゃなくて環境を整えるのもコンディションを整える一つの要因だよなあと当たり前のことを考えた。


10/26 晴れ

ふと学生の頃を思い出した。
学生の頃リュックの肩紐を異常なまでに伸ばして背負っていた人がいた。服装もルーズで、周囲に私はだるい感じですよと全身で表していた。多分全身では飽き足らず、リュックまでもそのアティチュードを表現したものだったのだろう。
リュックは適切に使ったほうが肩や腰に負担は少ない。
そんなことって働いてる大人世代にもある気がする。
小さな抵抗。そんなことしてないで、まっとうに生きた方が何倍も有意義なのに。


10/27晴れ

星野源が言っていたけど、人が一生懸命に取り組んでいるものやことを語ったときに、腐すような発言をしてくるカルチャーが苦手だと言っていた。
これには本当に共感するばかりで、つい先日も同じようなことがあった。
この動きをする人に共通するものとして、自分が諦めたことをいまだに引きずっている人に特有の動きな気がする。

自分が諦めたのに、なぜお前はそんなに生き生き追い続けてるんだ、眩しすぎるよと横槍を入れる。
不毛な攻撃。所詮はそんなしょうもないものなのに、傷がちくちくする。そんなもの、気にせずに突き進んでいきたいのに。前だけみて、目の前のことだけに集中していたいのに。傷の痛みが癒えるまで、自分は続けるだけだ。傷がいつしか新しい皮膚になって厚く、強く、しなやかになる日を想って。


10/28晴れ

その人が嫌いなわけじゃないのに、言葉にできないモヤモヤだけが残る。
これまでそういう人は何人かいて、自分でもなぜそんな感覚が残るのかわからなかった。
ただ今日、彼らに共通点を見つけた。
それは相手の言動にリスペクトが無いことによるものだと気づいた。
特別無礼なわけじゃないのに、嫌な感じがあるというあの特有な感じは相手のことを慮る気持ちの欠落によるものだったのかもしれない。

相手の時間や暮らし、人生を軽く見た無自覚な言動というのはしこりのように残り続ける。
それに気づいた時、同時に自分はみんなに敬意を払えて要るだろうかとドキッとした。
常にそれは自問自答していきたい。


10/29 雨のち晴れ

60年に一度の祭りがあった。
60年に一度だから前回開催は1960年ごろ。終戦後15年ぐらいしか経っていない時期にあったことになる。でも実際に行ってみたらいうほどすごくはなかった。
こんなことを言ったら、バチが当たるかもしれないがそうだった。
継承していくには開催感覚の設定も考えなきゃならないんだと学んだ。
近すぎず、冷めすぎず、いい塩梅を探るのは難しいのだろう。オリピックみたいに4年遅うのは結構いい線いっているのかもしれない。
諏訪の方の祭りは確か7年に一度の祭りがあったっけ。案外7年というのもいいのかもしれないな。

糸井さんのコラムを読んだら、「最近人生とか、生活に役立つことばっかりやっている。人生に役立つことだけじゃなくて、役に立たなそうなことも同じように大事だよね」という趣旨の文章で、いつしか忘れかけていたことを思い出させてくれた気がする。
役立つ情報だけ追いかけていたら、それはそれでいいのかもしれないけれど雑味とか深みとかなくて、薄っぺらになりそうだ。無駄を愛していくことも大事よね。

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