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日々読み #9

12/26 晴れ

火曜は足の悪いおばあちゃんと外を歩くのが日課だ。まずは玄関先で挨拶して、バイタルサインを測って、全身状態と足の手入れを行う。そうしてから少しラジオ体操なんかを挟んで外を散歩するのだ。80を超えたおばあちゃんにとって外は障害のオンパレード。4歳くらいの子が僕らを追い越し、ひょいひょいと駆けていく。「あぁ、そういえば若い頃この道を駆けて歩いていたっけなあ。若い頃はなんともない道だったのにね。若い頃この道であったお婆さんがこの坂はなんともキツイねって言ってた意味がやっとわかったよ」と。
ゆっくり歩くことで普段見えてこない障害がたくさんあることに気づく。閉じこもりになってしまう原因は本人だけで完結するものだけでなくて、社会のあり方も関与してくるのだろう。あのまま病院にいたら知らないこと、わからなかったこと、気づかなかったことがたくさんだ。


12/27 晴れ

今日は我が家にまるごとのブリが届いた。ブリを市場で見かけたことはあるがまじまじと見る機会はなかった。直近で見てみると表面は刀のような青と鏡のようにきらめくシルバーのツートンに淡い黄色のコントラスト。そして海水の隙間をするりと突き抜けていきそうな弾丸のようなフォルムが非常に美しい。
鹿児島で水揚げされたというブリの持つ立派な体躯は栄養満点な海をこれでもかというほど詰め込んだようによく肥えていて、見ているだけでも生前のエネルギーがこちらにも飛び散ってきそうだ。

よくよく考えてみるとこれだけでかい魚を1から捌くこと自体初めてだ。
妻と捌き方動画を見ながらあれこれ悪戦苦闘しながらも捌いていく。主に妻が陣頭指揮をとりながら捌いていったけど、鱗をとったり、骨を切る時だったり、兜を割ったり、洗浄したり、3枚に下ろしたりと
手順が多いし、力もかなりいるし、正直すごくたいへんだった。
しかも魚の身は水、血、空気はに晒されると味が損なわれてしまう。そのため捌き切るまでの手順と裏腹に、細心の注意を図る必要があり、ブリの刺身にする頃にはヘトヘトになるほどであった。
普段僕らはサクとか、切り身を買ってそれらを調理していただいている。僕らがお買い求めしやすい形にしてくれているのだ。スーパーの鮮魚コーナーの人たちには感謝しかないが、昔の人たちはこれを自分たちでやっていたし、本来であればそれを請け負えなければ食べられないものなのだとも思う。

年末にブリを捌く行為を通して命をいただくという行為の残酷さやありがたさや大変さに気づいた。
というよりも取り戻すことができた気がする。
資本主義で「食」も便利になったり、お買い求めやすくなった。だけど本来は面倒なことなのだ。
その大変さを経なければ本来であれば、食べる覚悟も食べる資格もないのだ。
その大変さを省略したおかげで楽になった反面、実感や覚悟が薄れてしまっている気もする。だからこそ簡単に食べきれなかったら捨ててしまったり、無駄にしたりしてしまうのではないかなと思う。
たとえ1人で食事をしていても目の前には食材がある。
食材は命や人の手が幾重にも重なって僕らのもとへやってくる、どんな食材にもじぶん以外の他者が含有される。僕らは食事を通して他者を取り込む。そして吸収され、血肉となり、自分の明日になっていく。
明日を作るために関わってくれた全ての食材への敬意はそのまま自分の未来だからこそ、絶対に敬意だったり感謝は忘れてはならない。意図しない形で食について考えることになって、少しいい年末の過ごし方ができているなと感じる。


12/28 晴れ

今日は写真の話。写真はことばという話をしている写真家さんは多いように思う。写真に限った話ではないけれど、作品はどうしても人がいいか悪いかの評価を下す。自分だけで満足する世界があってもいいかもしれないが、ぼくはそれだけでは嫌だ。人にいいと言ってもらえることも大事な要素の一つだと思う。
いい写真には必ず他者を意識した目線があるはずなのだ。
世界を斜めに見て、誰もやったことがないようなことに突き進んで、レンズの半分を黒塗りにして写真を撮るとか、もはやなにが写っているかわからないような作品を撮ったって他の人に伝わらなければダメなのだ。稀に破天荒な写真でも人に届くこともあるだろうが、伝わる人は一握りだろう。それは10年後20年後の後の時代でも恥ずかしくないものが取れているだろうか。いまを煌めく写真家の幡野さん、濱田さんたちも普遍性を含んだ写真が多くある。いい写真はやはりいいのだ。そこから大きくはなれてはダメなのだ。写真もことばと同じで普遍的にみんなに届く言葉ではなければならない。真っ直ぐ世界を見つめて、自分の視点で切り取る。これから意識していこう。


12/29 晴れ

僕は本に書いてあること、人に言われたことはちゃんとできても、本に書かれていないことや自分で気づくことに弱い。
結局のところ人生は勉強ができたとしてもダメなんだと思う。人に教えられたものだけでは、うまくいかない。普段からいろいろなものを見て、気づいていかなればならない。一朝一夕では身につかないかもしれないが少しずつ積み上げていこう。


12/30 晴れ

スラムダンクを見てきた。そうきたかという印象だった。
スラムダンクを知ったのは、父がきっかけだった。バスケを始めた三年生の夏休みに暇だろうからとスラムダンクの1〜17巻セットを突然プレゼントされた。何故父が僕にスラムダンクを贈ったのかはわからないけど、父も好きな作品だったのかもしれない。

父からプレゼントされた日から僕は熱中し何度も繰り返し読んだ。スラムダンクは幼い頃の僕に大きな影響を与え、確かに僕の血肉になっている作品のひとつだ。
そんな大切な作品が作者の手によって映画化された。見る以外の選択肢はないだろう。

見た感想は最高としか言いようがなかった。設定、シナリオ、リメイクされた箇所、細かい作り込み、全てが良かった。あの頃熱中したスラムダンクが確かにリマスターされ、今の技術で進化したスラムダンクがあった。
あの息遣い、あの苦しさ、青春の熱量、そして喜び。それらが凝縮していた。本当見れて良かった。そして受け取り方もあの頃とはまた違った自分がいることにも気づかせてくれる。
こんな作品をまた届けてくれて、ありがとうございます。映画を見て、良い悪いとかじゃなくて、感謝したくなったのは初めてだ。妻も漫画は、読んでなくても同じ熱量を感じてくれたようだった。バスケって本当に良いな。まだ見ていない人はぜひ。


12/31 晴れ

今年の締めくくりの日記だ。今年も今年で公私共に大きな変化があった年だったように思う。結婚に引っ越し、転職に、生活スタイルの変容にと、よくぞ一年でここまで変わったものだと自分のことながら振り返ってみて驚いてしまうほど。そんな大きな変化があっだけれど、不思議と不安を感じるということは少なかった。むしろ確信めいた直感のようなものを感じていた気さえする。当然、決断する時には直感だけではない。だけれど、思考で導き出すというよりも身体的な感覚を信じて決断をした。例えるなら目を閉じて少し良い光とか微熱を感じるとかそういう感覚に近い。頭というより、より動物的な感覚に重きを置いて行動した感じである。少しいい加減な印象もあるかもしれないが、それでも自分の全く後悔していない。良い加減だったのかもしれない。
身体的な感覚に重きを置いて問題を考えだからこそなのか、生活スタイルがより人間的になり、自分の体内時計は整って、夜勤明けによく感じていた動悸や不整脈は感じなくなった。過剰なストレスから過剰な飲み過ぎもない。なんだったら自分はお酒が好きではなかったことに気づいた。そして体にもそこまで合わないことにも気づいた。
みうらじゅん氏も言っていたけど、そもそもお酒が好きだったわけではない。人と楽しく話せればカルピスでよかったのだ。人と楽しく話すために合わせてお酒を摂取していたのだ。なんだか寂しい感じだ。でも案外そういう人はいるんじゃない?
簡単に楽しくなるためにお酒を飲むんじゃなくて、ちゃんと生活してみたら生活の中に遊べる部分が案外潜んでいて、気づいてなかった楽しいことがいっぱいあった。それらをひとつひとつ楽しむように暮らしていたら、本当の自分を少しずつ取り戻してきた気がする。
今は仕事終わりのビールよりも朝にゆったりとコーヒーを飲む方が好きだし、なんだったら飲むならカルピスより白湯の方が好きだし、稼ぎも大事だけど人間らしい時間に寝て、人間らしい時間に働く。それが好きだし、合っていることにも気づいた。
そこまで本来の自分を無視せずに、鈍らさず働ける環境がある今が好きだ。
数年前の自分から、ここまで気持ちよく生きているなんて想像もつかなかった。
昔よりも健やかに、まっすぐに自分を愛せる「今」が心の底から好きだ。そんな場所を僕に教えてくれた妻には本当に感謝しかない。今日よりも明日、明日よりもその先。妻と一緒なら明日は良くなることしかないと思える。来年の自分がこれから楽しみだ。
来年もご機嫌に生きていきたいものだ。

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