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【創作大賞2024】第12章_「私の手記①」_ミステリー小説部門

『セックスしたらコロナになりました。』


第12章 私の手記①


 もちろん、私は今でも、姉のことはほとんど理解できていません。姉の価値観を私は到底、受け入れることなんてできません。

 私がかつて自殺しようと思ったときも、その背中をそっと押してくれたのが姉でした。高校生の頃からご飯をうまく食べられなくなって、食べたものを吐き出していましたが、大学を出るころには、しっかりとした鬱(うつ)になっていました。毎日憂鬱(ゆううつ)で、朝起きると絶望感でいっぱいでした。
 昔は嫌なことがあると、ウサギのぬいぐるみとおしゃべりをすることで、落ち着くことができましたが、その頃にはぬいぐるみともおしゃべりできなくなっていました。ウサギの声が聞こえなくなってしまったのです。それだけでなく、ウサギを抱いても眠れなくなってしまいました。

 私はなんとか元気を出そうと、食べ物を詰め込んでは吐くようになりました。なにか嫌なことがあると、食べて吐いて、彼氏に振られると食べて吐いて、男にヤリ捨てされると食べて吐いて、仕事に行きたくないのに行かないといけないから食べて吐いて……、いつしか、食べて吐かないと生活できなくなっていました。
 私は会社でも吐き続けていたのですが、それは決して楽しくてやっているのではなくて、もう生きていることがイヤになっていました。生きるために食べて吐いているのか、食べて吐くことが生きることなのかを問うほどに、私には生きる意味も価値も希望も見出せなくなっていたのです。
 なんの感情も感動もなく呆然と生きていたあの頃、会社をいったん休職しようとしたことがありました。心療内科の医師に「一度休んだらどうか」と勧められたのです。あのとき、なぜか姉は激高して、医師に文句をつけに行ったのでした。

「この子を甘やかさないで下さい」
 
私は姉のおかげで、休職することができなくなりました。

 私は、あのとき受け取ったグシャグシャの千円札を今でもハッキリと覚えています。それはたしか診断書の料金で、病院の窓口で返してもらったのでした。姉がクレームを入れたものだからお医者さんも困っていて、それで早く私たちを帰らせようとして、「診断書は書きませんし、料金を返しますのでお帰り下さい」って言われたのです。
 あのときはたしか、夏目漱石だったと思います。使い古された漱石の顔を見ると、彼の小説の中で自殺したKという少年が、立体的に浮かび上がってきたことを覚えています。私を追い込む姉と、Kを追い込む先生とが重なったのかも知れません。
 あの時の漱石は無表情でしたが、4千円を受け取った瞬間、生々しい肉声を伴って、おまえなんて死ねばいいって聞こえたのです。
 休職なんて甘いことを考えるおまえは生きている価値なんてない、さっさと死ねばいいと――。あの声は漱石のものだったのか、あるいは――。

 私はあのときのお金を父に返しませんでした。あのときの私はお金がなくて……、私は父に4千円を借りたのです。いえいえ、私だってさすがに4千円くらいは持っていましたけど、お財布に現金があるとすぐに食べ物を買ってしまうから、現金を持ち歩かないようにしていたのです。
 病院で4千円って言われたときに、これから下ろしに行くよりも母に頼んだ方が早いと思って……、そうです、厳密にいえば私が頼んだのは母でした。
 母はなんだかんだ、お金に関してはゆるいところがありました。素直に頼めば大体くれるので、それで私は母にこっそり頼んだのです。そうしたら母は仕事だと言って、お父さんが持っていくから待っていなさいって言ってくれて……。
 それでも、結局は診断書を返却したときに、4千円が返ってきたのですけどね。そう、そのお金を私は返さなかったのです。どんぶり勘定の母は、どうせ忘れてしまうだろうし、お金に執着しない人なので、一度渡したお金に対して、返金の請求することはないとわかっていました。

 そのお金……、私にささやいたその4枚の漱石を私は結局、食べ物に変えました。私は、自然とそのお金をお財布に入れて、たくさんの食べ物を買いに行ったのです。
 4千円もあったからその日は豪華でしたよ。スパゲティとかお寿司とか菓子パンとかたくさんたくさん買って、家に帰るまでの私は高揚していました。これからカロリーが高くておいしい物がたくさん食べられるのだって、それはもうワクワクしてしました。家に帰るとお皿にも入れず、夢中で一気に詰め込みました。
 慌てているから胸にはソースがつくし、お腹の辺りにはパンの欠片がたくさん落ちてしまって……洋服にシミが広がるころには、胃も膨らんでくるのです。
 そうすると、だんだん、後悔と空しさが襲ってくるのですよね。悲しみとか、孤独とか死にたい気持ちとか……、だからそのままトイレに箸って、便器の中にぜんぶ流しました。そう、私の感情はぜんぶ、トイレに流せばよかったのです。

 一度は食べ物に変わった4人の漱石も、私のなかに飲み込まれたあと、下水に溶けました。私は母が一生懸命に働いて稼いだ漱石を、何の役に立たせることもなく、ただグチャグチャにして、ドロドロにして、この世から永遠に消し去ってやったのです。

 休職できないことがわかってから、私はそれでも毎日会社へ行きました。
 相も変わらず、こっそりと食べてはこっそりと吐き続けました。お給料はすべて、食費に消えました。私はどうせ吐き出す食料を毎日何千円も、毎月何万円も買いました。
 姉が心療内科の医師に文句をつけたことで、病院との関係もぎくしゃくした挙げ句、私の精神状態も不安定が激しくなる一方だったので、いよいよ精神科へ転院することになりました。そこではうつ病から躁うつ病へと名前も変わり、先生はそれまでと違ってとても親切でした。初診で「これは脳の病気だ」と強調されたことを覚えています。だけど、精神科医が「脳の病気であって、あなたの人格が問題なのではない」と言ってくれるほど、あなたの人格がおかしいと言ってくる家族が思い出され、優しい先生に対して欺いているような罪悪感を覚えました。

 薬はどんどん増えました。抗うつ剤や気分安定剤など、毎日五種類くらいの薬を飲んでは、多少ラリって会社へ行き、それから食べて吐いて過ごしました。

 それからしばらくして、私は死のうと思いました。
 もういいやと思いました。アルコールを飲みながら精神科で処方された薬を二十錠か三十錠か四十錠か、そのくらい飲みました。

 目が覚めると病院にいました。

「救急車代は自分で払ってね」
 
母はたしか、そう言ったのです。そんな母と並んでいた姉はなにも言いませんでした。あきれていたのだと思います。冷たい視線を私に落としました。

 あの夜、私の身体は死ねませんでしたが、私の心は静かに死ねました。
 
 だけど、あれから数日経って、父と二人だけになったとき、「お父さんは、死なないでほしいよ」と言ってくれました。私の死んだ心がわずかに動いたことを覚えています。

 今でも、私には姉のことが理解できません。あの頃から何も変わらず、ここまで私を追い詰める姉を、私はきっと理解したくないのだと思います。この人を許してはいけないと思いました。

 だから頑なに、メッセージを開きませんでした。絶対に既読にしませんでしたし、謝罪もしませんでした。両親を殺しかけたという激しいコトバを使ったのは、彼女の挑発だったのではないかと思います。敢えて私に反応させたくて、私を傷つけるコトバを使っているような気がしました。
 きっとそこには反応されないことの寂しさや孤独感があるのだろうと想像しました。だけど私は、たとえ殺人者と言われても、それを認めることも、認めないこともしませんでした。それはつまり、反応だけはしなかったという方が正確かも知れません。私は私を殺そうとした姉を、簡単に許してはいけなかったのです。

 つまり、彼女が反応することを求めていることがわかったから、私はあえて反応だけはするまいと誓ったのです。
 
 彼女から発せられるメッセージはいつだって、悲痛な承認欲求を漂わせながら、光になって、音になって、香りになって、私に届きます。
 私のことをわかってほしい、受け止めてほしいというような赤ちゃんのような純粋な欲求が、痛々しいほどの叫びとなって、私の五感には訴えかけてくるのです。私にはそれが聞こえてしまうから、聞きたくないのに聞こえてしまうから、見たくないのに、嗅ぎたくないのに、私から離れてくれないから、だからこそ、それをやってはいけないような気がして、それはだけはしちゃいけないような気がして、私は必死で無反応を選びました。
 
 だけどある日、父がクッキーをくれたのです。そのウサギには口がありませんでした。だから喜怒哀楽が見えないのですが、それでも表情ななぜか柔らかそうでした。口に入れると、とてもサクサクしていて、軽くて甘かったです。

 だから思いました。私はぜったい謝らないし、彼女のコトバに反応しないし、要求に応えることをしない代わりに、誕生日プレゼントを贈ろうと――。

「お誕生日おめでとう! こうしてプレゼントを贈れるということがとても幸せだと思います。お土産ありがとう、嬉しかったです」とメッセージを添えました。
 私はこれまでのことについて、何も触れませんでした。10年以上前の自殺未遂も、数ヶ月前のコロナのことも、彼女からのメールをずっと開いていないことも――。
 未開封のまま彼女からの怒りの残高をそのまま貯め込んで、私はそれに対する一切の返済義務を放棄して、何もなかったかのように、何の借りもないような顔をして、からっとしたプレゼントを贈ったのでした。

 ですが、私のコトバには一つの欺瞞もありませんでした。私は生涯、姉を許したくないけれど、こうしてプレゼントを渡せることが幸せだったし、ウサギのお土産をくれたことは本当に嬉しかったのです。あるいは尊いと表現した方が適切かも知れません。
 
 姉妹という存在は感覚も価値観も何もかも一致しなくても、夫婦のように離婚することができません。姉妹をやめるわけにはいきません。だからこそ、ここまで傷つけ合わないと、離れることも交わることもできないのかも知れません。
 
「ありがとう」というメールが届きました。私はそのメッセージをポップアップで確認しただけで、やはりそのメールを開き、既読にすることはありませんでした。

 私には彼女からの感情が重たかったのかも知れません。姉からのメールはいつも、文面とは裏腹な感情が乗っていて、それが私にはものすごく重たかったのだと思います。
 
「送信を取り消しました」というメッセージですら、解釈するには心のカロリーをたくさん消費しました。どんなに私を責め、攻撃するコトバが並んでいたとしても、その余白や行間にはびっしりと寂しさや悲しみが詰まっていたのです。何よりも苦しかったのが、そのネガティブな感情にこそ、彼女の優しさや慈しみがたっぷりと含まれていることでした。彼女の愛を受け取るには、オブラート代わりの怒りを伴わなければならないというパラドックス。

 彼女の行動や言動は素直じゃありません。
 本当は好きなのに、嫌いと言ってしまうような、メンヘラ彼女のような性質が姉にはあるのです。それはツンデレと呼ぶにはあまりにも悲しく、強烈なものでした。屈折していて、不器用で、とても繊細で弱々しい乙女――。

 私はそれを咀嚼するのが、恐らく苦しかったのだと思います。同じ両親の元に生まれ、その苦さが誰よりもわかるからこそ、咀嚼してあげたい気持ちと、これ以上は咀嚼できない気持ちとで、いっぱい、いっぱいでした。私は彼女の苦しみを食べては、後でひっそりと吐き出していたから、もうこれ以上食べてはいけないと、そう直感したのかも知れません。

 彼女のメールを開くことができなかった自分を省みて、今となってはそのように感じます。

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