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【え11】堅牢な涙腺

私は人より経験値が高い方だと吹聴しているが、とかく「泣く」という事に関しては、他者より少ないと感じている。それが号泣ともなれば尚更だ。

卒業式は4回経験しているが、泣いたのは小学校を去る時の1回のみ。
全員が同じ中学校へ進むというのに。

結婚式にも幾度か招かれた。
新郎の友人であっても、新婦の親族であっても。
どの立場に身を置いても泣くことは無かった。

恋愛の終焉の際もまた、私は涙を流すには至らなかった。
フラれた事も多々あった。成就したとしても別れはやって来る。だから今まで独り身をやって来れた。
お互いにとって納得した別れであっても。
どちらかにとって辛い別れであっても。
冷たいと感じるだろうが泣く程ではなかった。一抹の喪失感はあったが。

不祝儀な状況では、それなりに経験はある。
少なくとも私の4人の祖父母は、もうこの世にいない。

初めて「人の死」を見て涙を流したのは、母方の祖母が去った時。
今から30年以上前。小学生の時の話だ。
私の通う小学校では宿泊訓練なる行事があった。山の中にある自然教育施設で、オリエンテーリングをしながら一泊を過ごす。大した日程ではない。あっという間に終わる事だ。
ちょっとした冒険旅行が始まる朝、私は自宅のアパートの階下にあった祖父母の家に向かい、いつものように挨拶をして家を出た。「いってきます」「はい、行っといで」。何の変哲もない日常だ。
冒険の旅を終えて自宅に戻った時。忽然と祖母は去っていた。
これもまたいつものように友人の家を訪ね、そこで息を引き取ったと聞く。突然の事態に一番驚いたのは、きっと祖母だろう。そして、人目をはばからず泣く母の姿を見たのは、これが初めてだった。

父方の祖母の場合は、シチュエーションが異なる。
彼女は、私がこの世に生を受けた時から愛してくれた。
私が成人を迎えても、相思相愛の状態は続いていた。
しかし、彼女も寄る年波には勝てない。その上に彼女は病を患い、寝たきりの日々を送っていた。それでも私との意思の疎通は出来ていた。私は彼女が死を迎えるまで、それは続くと思い込んでいた。
ある日、私の元へ彼女が入院するとの報が入った。彼女と住んでいた叔父からだった。私は一年近く彼女に顔を見せていなかった。仕事に追われる日々を理由にしていた。仕事が落ち着けば彼女と話ができる。そんな根拠なき甘さがあった。彼女に何が起こったのかを詳細に聞くこともなく、私は仕事を終えた後に病院へと車を走らせた。
そこでの経験は衝撃的だった。雷に打たれるとはこういう事を云うのだろう。
この世に生を受けた時から愛してくれた私を、彼女は完全に忘却していた。
私が私であるという事ですら、彼女は理解していなかった。
根拠なき甘さを私が有している間、病は彼女の思い出を蝕んでいた。私の存在を、どこか彼方へと運んでいった。
その姿を見た時、私の心からも「彼女の生」という言葉が消えていた。私は持っていた鞄の中から手帳を取り出すと、なぐり書きで叔父宛に思いの丈を綴り、そのページをベッドサイドのテレビ台に置いて、病室を去った。いつもなら別れ際に必ず「また遊びにおいで」と言ってくれた彼女からは、何も言葉はなかった。
私と相思相愛だった彼女は、遠くへと行ってしまったのだ。そう思うことにしよう。そうでもしなければ、気持ちが整理できない。
スーツ姿の私は嗚咽し、時折コンビニの駐車場に車を止めてはそれを繰り返しながら自宅へ戻った。

ひとつ屋根の下で暮らしていた母方の祖父の死は、正直なところ「終戦」に近い状況であった。肉親である母と私は、事ある度に祖父の介護のことで言い争っていた。祖父の死よりも、母との壮絶な闘いにピリオドが打たれたという心境の方が強かった。非日常的な状況に身が置かれていたので、涙はそれなりに流したものの、安堵感のほうが勝っていた。母の表情も同じに見えた。交わす言葉もなく突然逝ってしまった「母」の時と比べれば、「父」との別れに対する準備は万全だったと思われる。

祖父母の喪失のトリを飾った父方の祖父の死は、実にあっけらかんとしていた。私がそれなりに社会的地位を有していたのにも関わらずだ。
私にとって父方の祖父は、父方の祖母の「オマケ」のような存在であった。可愛がってくれてはいたが、私には目的地へと運ぶドライバーと見る機会のほうが圧倒的に多かった。祖父にとっても私にとっても「不孝」と言わざるを得ない。

涙を流すということに対してもTPOがあるのであれば。
私は極めて不躾な人間だろう。

「泣くという行為は、心のデトックスだ」
それは何度も耳目に触れている。数多くの媒体の中で、否が応でも知る。
映画を観ては泣き、歌を聴いては泣く。小説もそうだろう。
周囲はその行為で疲れた心身を癒やしていたようだが、私にはそれがピンとこない。
映画も観ず、小説を手にすることもない。歌を聴く事は、カラオケに誘われた時のレパートリーを増やす行為でしか存在しない。時として切ない思いをさせるが、涙を流すには至らない。

そんな心の持ち主である私を、昨日ある者が訪ねて来た。
彼は2年ぶりに訪れた住まいに、興奮を覚えていた。
何もかも新鮮に見えていた訳ではない。その様子たるや、ただただテンションが上がっているようにしか見えなかった。
居なくなってしまったメダカを残念に感じ、階段を昇れるようになったと自慢げな顔をする。飼っている鳥は覚えている。ありふれた「ピーちゃん」という名前は忘れていたが。
お気に入りであったオモチャの存在も忘れていたが、庭に置いてあったショベルカーは目に入ったようだ。久々に乗る姿を見て、私はサイズに違和感を覚えた。しかし、それに乗る楽しげな顔は以前と変わらない。
彼は私に、自らが作ったという雛飾りを渡した。どちらがお雛様なのかは分からないが、私には最高傑作に見える。ピカソのゲルニカを軽々と上回っている。
ところが時節は残酷だ。私と彼との間にはミクロン単位の物が阻んでいる。
あの頃のように抱きしめる訳にもいかない。頬と頬を擦り合わせ「ヒゲがちょっと痛い」と言わせることも出来ない。手すら繋げない。何処で覚えたのか知らないが「肘タッチ」はマスターしていた。
ただ、自宅を去る時には以前と同じくハイタッチを求めてきた。私はそれに応えた。彼の要求に喜んで応じた。
住まいを去る時に彼は、私の姿が小さくなるまで手を振り続けていた。
いや、振り続けてくれた。今度は私の要求に対して。

彼は春が来ると、私の自宅の裏手にある建物から去っていく。
そして、遠く離れた「幼稚園」という新たな場所に行く事となる。
彼は、その日が来ることを待ち望んでいる。気持ちは既に新たなステージへと向かっている。

5歳の幼子は、43年生きてきた私に「ありったけの涙」を渡してくれた。