【書評】『反=日本語論』/話す技術【基礎教養部】

蓮實重彦「反=日本語論」を読みました。内容もさることながら、フランス関連の雑学が身につくお得な本でした。民主主義や「制度」のところは急に話が大きくなってびっくりしました。
お盆で地元の人や親戚の人と話す量が増えるタイミングの前後で何度か読むことになり、コミュニケーションについて考える機会になりました。
口数が少ないためか思慮深いと思われてしまうことがあるのですが、脳がフリーズして話ことを構成するのに時間がかかっているだけです。過度に期待されても気まずいため、考えていることを考えているだけ口に出せるようになるための訓練を行う必要を感じています。
会話する専門の職業があるくらいですから、コミュニケーションという大仰なものがあってそれを習得しようと意気込むと沼ることが確定しそうです。相手もとくに訓練などしていない人であり、情報伝達/感情の同期が人間の記憶力とワーキングメモリーの制約のもと行われると捉えています。7割ぐらいのシチュエーションで7割ぐらいの満足度の会話を行うことを目標にしています。
この記事ではいくつか思いついたテクニック的なものを記しておこうと思います。

・コミュニケーションについて1
著者の妻のエピソードとして、外国人である彼女に対し語学の練習相手としかみなさずに話しかけてくる人が醜い、という話がありました。相手について知りたい、自分のことを知ってほしいというメッセージがそもそも存在もしないかもしれないし、あったとしても全く伝わっていないわけですね。内容の伝達以前に、「こいつと話したくねーな」と思われないための手順 (しばしばひとによって真逆だったりする) を経由する必要がある、というのは、この章を読むまで意識化されていませんでした。中学生ぐらいのときだったらば、そんなもんやらずにさっさと本題だけやりとりすればいいんでねーの?などと反発したりしたかもしれません。接客マニュアルやナンパ術はある種の技術を抽出したものですね。酔っ払いが嫌われるのも、判断能力の欠如というよりも、相手を認識する能力が下がっているので聞き手が誰でもよくなるからかもしれません。飲み会、サービス業をやっていればもう少し早く気づけたことかもしれません。「心の欲する所に従えども矩を踰えず」という境地まで至れば「思ったことを言うだけ」ですが、人とお互い楽しく話をするために必要なスキルというのは意識的に身につけてゆきたいです。

・コミュニケーションについて2
本書の文体の特徴の一つに、文が長いので脳に一次保存すべきことが(一見)大きくなるというのがあります。繰り返し読むと、1文を構成する組み換えの練習になるのですが慣れるまでつらいです。慣れるとできるようになりました。
会話を始めるまえに、何について話す事になりそうか予想して必要な知識を思い出しておくといい、ということに近頃気づきました。これまでは相手になにかしら質問されてから、回答に必要な頭の引き出しを探し始めていたので返答に時間がかかっていました。
会話の応答スピードがひとよりも明らかに遅いので、なにかおかしいと思って考えたところ思いついたもので、何か目的がある会話では自然にやっていたのですが、雑談や非定形の事務連絡でも同じことをやると沈黙時間が減って良いです。

・コミュニケーションについて3
必要十分なだけの会話で済ませようと思うとリアルタイムの会話は非常に難しいです。相手の前提知識を見積もることは難しく、伝達内容を相手に合わせて組み立て直すのにも頭を使います。
自分から相手に伝えるとき、説明の方針としては、自分の理解をまるっと相手の頭の中で再現させようとするのではなく、相手が理解したいことの一つ下層にあるのサブシステムは「そういうもの」として説明し、そのサブシステムの理解はまた別のセッションで、というのがよさそうではありますが、内容依存の手法です。
汎用的なテクニックとしては、繰り返しをいとわず、簡潔性を犠牲にして冗長性をもたせて伝達内容に漏れが無いことを優先するのがよさそうです。
チェックリストにまとめるとすれば↓のような感じでしょうか。
・あらかじめ説明にかける時間などを知らせる
・今から何を話すか全体像を示す
・今から話すことがどの場所か示す
・内容を話す
・今話したことがどの場所か示す
・相手に理解したことを説明してもらう
・最後に全体像を再提示する

他に、
1. 状況ごとの典型的な話の進み方を覚えておく
2. 話題を予告、転換、集約するつなぎのフレーズを持っておく
3. 「ウェーイ」のような「ノリ」を同調させる言葉を持っておく
などもスムーズなコミュニケーションにつかえるということもわかりました。
物心ついたときから人と会話をしていないので、実践とノウハウ整理の両輪で進めてゆく所存であります。

・雑感1
書評では、規範意識に由来する断罪的な日本語論があることに言及しました。
学問でも職能でも、先達の経験と理論的な裏付けから構築された体系の一部に入門したあたりでは、体系が有効な範囲にすでに正しいとわかっていることを適用する練習を課されると思います。勉強をする上で第一段階のふるいが、「摩擦は無視する」や「#include <stdio.h>」のようなおまじないにアレルギーが出ないかどうかだとすると、次のハードルは「すで正しいとわかっている範囲」の内側で力尽きるか、処理できないことまでやれるかどうかではないでしょうか。これはのちの学問観に強く影響する気がします。インターネット上で学問を使って人を断罪するようになってしまうのは「内側で苦労し」たり、「内側で力尽きた」経験からではないかと邪推しています。力尽きた側でも理解できるぐらいの内容だからこそ内輪ネタとして有効という面もありそうです。偉そうなことを言っていますが、自分自身「内側で力尽きる」のがほぼ確なので、社交性を身に着けてTwitter改めXで人気者になりたいという変な気だけは起こさないように自制しています。何はともあれ、大学受験生が中学1年生の数学をやるぐらいの感覚で、博士後期の方が大学1年生の数学をやっていると思うと蓄積というのは大事ですね。

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