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愛は技術である。コリドー街で習練

何も知らない者は何も愛せない。
何もできない者は何も理解できない。
何も理解できない者は生きている価値がない。
だが、理解できる者は愛し、気づき、見る。
・・ある物に、より多くの知識がそなわっていれば、それだけ愛は大きくなる。
・・すべての果実は苺と同時期に実ると思いこんでいる者は葡萄について何一つ知らない。
  (パラケルスス)

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はじめに

 恋愛がしたい。
最初はそんな単純な動機だった。
単純な動機でここ、新橋のコリドー街に来ていたのだった。。。

 高校を卒業して以来、きちんとした恋愛を避けていた自分にとって
正直恋愛というものがよくわからくなっていた。いや実は最初からわかっていなかったのかもしれない。
でも恋愛について義務教育では全く教わらなかったし、周りで恋愛をしている人をほとんど知らなかった
家庭でも話をしたことがなかったので、ネットやホットドックプレスを見て調べていくしかなった。
調べていてよくわかったのは、いかに愛されるかやモテるかや好かれるかなどについての記事・情報が
とても多いことが分かった。
でもアドラーの「嫌われる勇気」を読んだ自分にとって1つ気になることがあった。
上にあげたキーワードが全て受動的な表現であり、相手の課題すなわち自分の力ではコントロールすることのできない
ことに対して書いてあるのだ。
目的が受動的なものであるならば、
積極的に行動しているように見えてはいるが、期待通りの結果をもたらすことは難しい。

そんなときに手にしたのがフロム著の『愛するということ』だった。
原題は”The art of loving”で直訳では「愛の技術」となる。
「愛される」ために行動することに違和感を感じていた私にとって、
「愛する」には何が必要なのかを知りたくなり藁にもすがる思いで読み始めたのだ。

“愛するという技術についての安易な教えを期待してこの本を読む人は、きっと失望するに違いない。
そうした期待とはうらはらに、この本が言わんとするのは、愛というものは、その人の成熟の度合いに関わりなく
誰もが簡単に浸れるような感情ではない、ということである。”


愛の理論

 本書は上の文章から始まる。
tipsのような、今日から簡単に使えるテクニックを求めて本書を手に取った方は失望するなと感じた。
それと同時に、愛というのは将棋と同じように技術として後天的に会得することができる
というのには勇気付けられた。
正しい理論の理解と習練に励みさえすれば技術は会得することができるからだ。


そして、真に人を愛することができるためには自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向くよう、全力をあげて
努力しない限り、人を愛そうとしても必ず失敗する。
そのためには真の謙虚さ、勇気、信念、規律を備えている必要があることに加えて、
現代の資本主義社会において真の愛のための基盤が壊されつつあるとも述べられていた。

  現在の資本主義社会においては、恋愛もとても影響力を受けているという。
人間は恋愛という市場において、自分という「商品」とよりお得な「商品」との交換に価値を見出そうとする。
つまり、いかによい相手を見つけるかどうかの【対象】が問題なのであり
愛する【能力】は後からやってくるものと考えられてしまっているのだ。
所謂、【一目惚れ】と言われるやつである。
Fall in loveやトップオブザワールド(カーペンターズ)などのように自然と「落ち」たり、「天に昇る」感覚がやってくるものなのだと
考えている人も少なくないのではないか。
いま思うに、同じ状態を形容するのに「落ちる」と「天にも昇る」気持ちの正反対の言葉が使われている様にも恋愛の奥深さを感じる。

 人はなぜ恋愛をするのか。それをする必要性はどこにあるのか。
これも重要なテーマの1つである。
なぜなら、これほど恋愛以外の娯楽が溢れており、少子化が進んでいる社会においてわざわざ恋愛をする必要性が
どこにあるのか。恋愛リアリティーショー見たり、タピオカを飲んだりして本人がそれで幸せであるならば、
わざわざ労力をかけ他人との深い繋がりをする必要がないのではないか。とも思える。

フロムの答えは否である。

それは本書の第二章の
愛の理論において、
【愛、それは人間の実存の問題に対する答え】
とフロムが言っていることからもわかる。
フロムの別の著作の『自由からの逃走』から一貫しているテーマとして、「現代人と孤立」をあげることができる。
前近代になると彼は「自由」な個人となった。彼を今まで縛り付けていた仕事や土地から離れ
彼は自由に歩くことができるようになった。
しかし同時に、彼は自分で人生に対して意味を見つけなければならなくなった。
人が社会的な動物である以上、一人で生きていくことはどだい無理な話である。
あのロビンソン・クルーソーも、フライデーがいなかったら孤独できっと発狂していたに違いない。
だからフロムは、「自由」な状態を通じて自らの生命を表現するような仕事をするか恋愛において他人との間で
「中心における経験」をする必要があると述べた。

 人が恋愛に対して飽きるどころからそれを欲しているのは、テレビで疑似恋愛の番組やバラードが人気なことからも
明らかだと思う。ただ、そうした恋愛は個人が直接経験的に獲得できるものではないから真の孤独からの
解決にはならず、場合によっては害にすらなりうるかもしれない。

 他にも、兄弟愛や自己愛や神への愛等々愛の様々な種類について、詳細に述べられている。
本書のメインテーマは異性愛についてだが、それとの違いであったり特徴が仔細に描かれていて面白い。

愛の習練

 理論として愛を学んだ後に大切なのは、習練つまり実践することである。
将棋においても同じで、いくら定跡書を覚え込んでも実践を経験しないことには自分の中に入ってこない。
実践を通じて得られた反省で1つ1つ強くなっていくのである。
では、愛を習練していくためには何が必要なのか。
愛するということは、直接個人的な行為に他ならない。
だから、「あなたはこれをした方が良い」
と一口に言うことは容易ではない。
それはその人の成熟の度合いによって左右されるから。

 しかし、どんな技術もそれをするのに最低限必要なことがある。
丁度将棋では、将棋に興味を持ち将棋が好きになることが習練の第一歩であると同じように。
 では愛においては何が必要なのだろうか。
規律・集中・忍耐・最高の関心をもつこと
の4つが必要なのであるが、
ここでは「集中」についてとりあげたい。

【集中すること】
 これは今を生きている私たちにとって容易ではない。
現代の社会システムがそれを許してくれないように思われるからだ。
1日の内で現代人を襲うは、平安時代の一生分・江戸時代の一年分に匹敵する情報量
それだけではない、マルチタスクに慣れてしまっているのだ。
音楽を聴きながらLINEをして歩いたり、
ご飯を食べながら週末の予定を考えている間にyoutubeを見たり
何もしていないこと・じっとしていること
がまるで悪いこと・耐えられないものであるかのように
人は起きている時間のほぼ全てを「消費すること」に費やしてしまっている。
フロムはそのための解決策まで提示してくれている。

リラックスして椅子に座り、目を閉じ、目の前に白いスクリーンを見るようにし、じゃましてくる
映像や想念をすべて追い払って、自然に呼吸する。呼吸について考えるのでもなく、むりに
呼吸を整えるのでもなく、ただ自然に呼吸をする。そうすることによって、呼吸が
感じられるようにする。そこからさらに、「私」を感じとれるように努力する。
私の力の中心であり、私の世界の創造者である私自身を感じ取るのだ。
すくなくとも、こうした練習を毎朝二十分ずつ、そして毎晩寝る前に続けると良い。

今で言うところの瞑想である。
リラックス効果や集中力の効果など、瞑想は科学的効果がでておりとても効果的なことがわかっている。

 他にも習練を積んでいくための一歩を歩むためのことが色々書いてあるので
是非とも読んでほしい。
蓋し、恋愛に限らず他の技術を会得する際にも応用できることが沢山書かれている。


最後に

 “愛するという技術についての安易な教えを期待してこの本を読む人は、きっと失望するに違いない。
そうした期待とはうらはらに、この本が言わんとするのは、愛というものは、その人の成熟の度合いに関わりなく
誰もが簡単に浸れるような感情ではない、ということである。”

 愛は技術である。
それは後天的に獲得することができる。
他人を愛することができるためには、自分が精神的に自立している必要がある。
 本書は全体的に易しい。しかし実践するのは容易ではない。

 自分には今愛することのできる人はいないけれども、だからと言って愛することを避ける理由はどこにもない。
習練を積むために、今日もコリドー街にいくのである。

最後まで、お読みいただきありがとうございました!!!

またお願いします。_φ( ̄ー ̄ )


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