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戰略なき母島上陸作戰 ~小笠原諸島紀行②

母の日に母島のことを書かうとする氣がなかつたと言へば、噓になる。

船旅はいいものだ。極度に搖れたり、騷々しい乘客と同室になつたりさへしなければ。昨晩は極度に搖れたが、それは過去の話。過去の感覺なんて、感覺として意味をなさない。今日は天氣も氣分もいいから、やはりこの船旅は快適至極である。

思へば、船旅の記憶は、深く心に刻まれてゐることが多い。そんなことを思つてゐると、過去の良き船旅の囘想が延々と始まつた。

スマトラ大地震の數日後に、海賊多發地帶を通過したペナン→メダン(スマトラ島の中心的都市)の船旅。時々北朝鮮を眺めながら、寢床の後で花札に興じる乘客がやかましかつた仁川→丹東(滿洲國時代の安東)。敵對國家ギリシアへの入國が拒まれるのではと怯へ、座席がないので甲板に寢轉がり、しかも夜間は寒くて室外機の排氣で暖を取つた北キプロス・トルコ共和國(未承認國家。ギリシアと敵對)→トルコ。妻と結婚前に美味しい羊料理を求めて3聯續で乘つたが、結局後に食べ物を巡つて喧嘩したマルタ→シチリア島、シチリア島→ナポリ、バーリ(南イタリアの都市)→アルバニア。木造の小舟での越境で、なぜか萬葉集を髣髴とさせられたラノーン(タイ南部の都市)→コ―トーン(ミャンマー最南端の都市)等々。海だけではない。川の船旅で思い出深いのは、水上生活者と原色のベトナムが堪能できたプノンペン(カンボジア)→チャウドック(ベトナム)。

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間も無く母島港入港。

東京~父島(約1000キロ。24時間)、父島~母島(約50キロ。2時間)の長い船旅は終はり、遂に母島に上陸した。しかし、なぜ母島に來たのだらう。翌日には父島に戾らなければならないのに。母島で1泊すると、父島では2泊しかできない。小笠原の旅程は、船の都合で一般的に以下のやうになつている。

第1日目 東京→父島へ(船中泊)

第2日目 父島到着(12時)・小笠原で宿泊(1泊目)

第3日目 小笠原で宿泊(2泊目)

第4日目 小笠原で宿泊(3泊目)

第5日目 父島發(15時)→東京へ(船中泊)

第6日目 東京着(15時)

飛行機がない小笠原の旅は、船の都合で最短6日必要になる。その場合、實際の小笠原滯在は3泊のみ。そんな短い滯在期間中に母島に來ると、父島を見る時間が無くなつてしまふのだ。それでは、なぜ母島に來たのか。

父を見て、母を見ないと、その家の狀況は分かるまい。母島といふ比較對象を得ることで、小笠原諸島が立體的に見えるだらう。また、母島行きフェリー「ははじま丸」の別名が「ホエールライナー」であるといふことにも惹かれた。專用の船に乘らなくても、鯨に遭遇できるかもしれない。ただ、「遠い」「田舎である」といふことだけでも、魅力になつてゐるとも考へられる。單に、視野を擴げたいと思つただけかもしれない。

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母島中心部といつても、このやうな感じ。

このやうに、とにかく母島に引き寄せられたのだが、「母島で何をなすべきか」といふ點は極めて脆弱であつた。上陸後、考へることにした。取り敢へず、到着して宿に寄つてから直ぐに、港周邊の神社2社へ參拜に行つた。その後、中心部を步き囘つた。人口450人といふ規模の島だけあつて、中心部もすぐに囘れてしまふ。それでも、道路沿ひに咲くハイビスカスや椰子の竝木、固有種の鳥、南國的な空氣に、充分滿足できた。

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「ヤドカリ注意」の道路標識は、初めてお目にかかつた。

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こんな所も、中心部から步いて直ぐ。

16時を過ぎたころ、展望臺に向かつた。船で鯨の說明をしてくれた解說員が、16時半より無料で鯨の案內をしてくれるといふ。行つてみると、私以外にもう1人しかゐなかつた。が、時間と共に人は8人程度まで增えた。鯨も、遠くにではあるが、かなりの數見ることができた。しかし、寫眞ではやはり小さい。鯨をしつかり見たいなら、ホエールウォッチング用の船に乘るべきだ。それにしても、解說員の鯨を見つける速さに驚く。我々が1頭見つける間に、何頭も見つけてしまふ。

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夕日と、かすかに見える鯨。

宿に戾ると、晩ご飯。宿の仕來りで、宿泊客全員で一諸に食べた。その後、全員揃つて星を見に行くことになつた。かうした集團行動、昔は大嫌ひだつたが、今では本當に樂しいと思ふ(恐らく、神道に關はるやうになつてから考へが變はつてきたと思ふ)。星は、よく見えた。これだけたくさんの星を見たのは、人生でも數へる程だらう。ぜひともその寫眞を見せたいのだが、やはり星空の寫眞は難しく、一枚もうまく撮れなかつた。

旅仲間は、なかなか個性的だつた。勤續10年で會社から20日間の休みを貰ひ、南米に行くつもりだつたが(私のやうに)コロナの影響で出國を止め、結局は母島と父島に20日間滞在するといふ男性會社員。TABIPPOといふ旅の普及を目指す會社の懸賞に當たつて無料で小笠原に來た女子大生(なぜか母島のみで滯在するらしい)。日本の旅行會社で働き、長期間小笠原に滯在してダイビングに沒頭するといふベトナム人女性。離島マニアで、今囘の母島訪問で伊豆諸島+小笠原諸島(父島・母島)を全制覇するといふ男性會社員。彼らとは、ヘリポートで星を1時間以上寢轉んで見た後、宿でも深夜まで飮んだ。

翌日。父島行きのフェリーは、14時。それまで、どうするべきか。母島には公共交通機關がない。だから、宿で車を出してくれることを期待したが、そのやうな雰圍氣もなかつたので、遠方は諦めるしかない。小笠原諸島の有人島(といつても、父島と母島だけだが)の最高峰である乳房山に登らうと思つたが、登山道が一部通行止めとなつてゐるらしい。止めた。レンタサイクルがあれば、ぜひとも借りたかつたが、それもなかつた。ただ、レンタルバイクはできたので、躊躇ひがちにバイクを乘り囘すことを決めた。久々だが、10年以上前までは、タイ各地でよくバイクに乘つてゐた。まあ、その時の記憶もよみがへるだらうと樂觀的に考へた。

8時半、出發。ここから、船が出航する14時直前まで、ひたすらバイクを乘り囘し、見所といふ見所を片つ端から見ようと決めた。決めた最初の目的地、「南崎」といふ南端の密林地帶で、2時間も步き囘つてしまつた。

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明らかに植生が違ふ。それに、眞夏の日中行軍といふ感じで、消耗する。

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この「南崎」は、母島で最も見所が多かつたと思ふ。

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このやうな美しい海岸でも、無人である所が多かつた。

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「小富士」からの眺望。「富士」とはいふが、標高は86メートル。

小笠原諸島は、戰前の方が人がたくさん住んでゐた。母島、今は集落が1つしかないが、昔は2つあつた。その無人となつてしまつた方の「北港」にも行つた。一番上の寫眞は、昔の小學校跡地。

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ここにも、戰時中までは集落があつた。感慨深い。

因みに、戰地となつた小笠原諸島(硫黄島も含む)には、戰跡も多い。

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何の案內版もなく、道の脇にあつた。

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「探照灯基地跡」とのこと。

13時15分に宿にバイクを返した。昼ご飯を食べられる所は、もちろんなかつた。14時の出港間際に乘船。昼ご飯は船上で、菓子パンと、折角だからとの思ひで買つた母島名物のパッションフルーツのみ。

母島滯在は、僅かに24時間。かなり濃密な時間であつた。

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