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喜劇ではなぜ、奇蹟が起こるのか?

80年代、黒社会をも巻き込んだいわゆる「ジャッキー・ジャック事件」を乗り越え、『プロジェクトA』や『ポリス・ストーリー』、『サンダーアーム』などの秀作を生み出したジャッキー・チェン。その重要な “10年” の最後に、彼はフランク・キャプラの遺作をリメイクした。

『ポケット一杯の幸福(原題:Pocketful of Miracles)』は、キャプラが自身の監督作『一日だけの淑女』をセルフ・リメイクした王道コメディである。

ニューヨーク一帯を牛耳るギャングのボス・デイヴ(グレン・フォード)は取引に挑む前、りんご売りの貧しい老婆・アニー(ベティ・デイヴィス)からりんごを買う。そうすればなぜか奇蹟が起き、どんな危険からも逃れることができるのだ。
アニーには遠く離れた国に住む一人娘がいる。余計な心配を掛けたくないという思いから、手紙では身分を偽り、街の名士たちとの交流を綴る。なけなしの金を包み「勉学に励んでほしい」と仕送りを続ける。
そんなアニーの嘘を信じる娘は、スペイン伯爵の子息と結婚することになった。
夫と会ってほしいと里帰りを申し出る娘。このままでは嘘がバレ、縁談は危うくなってしまう。
アニーの窮地を知ったデイヴは、これまでの恩義に報いようと、手下のギャングたちを総動員し豪華な歓迎パーティーを開くことにしたのだが……。

映画のラスト。
素行の悪いギャングたちに高貴な身分を装うなど到底不可能で、パーティーの開催を断念する。皆が諦めの境地に達したところ、なぜかトントン拍子で話が進み、パーティーは大成功。娘の縁談も破棄されることなく、映画は終わる。
一見ハートフルな話だが、なぜ幸せな結末を迎えられたのか、その理由は曖昧で、奇蹟が起きたという説明しかない。まるで「こうであったら」という“幻想”を見せられているような気もする。

コメディの語はコモイディアに由来する。
コモイディアは、古代ギリシャの男根儀礼で歌われた為政者に対する風刺の歌であり、それはハッピーエンドで終わるという。明日の生活も保障されぬ市井の人々が、贅沢を尽くす支配者への批判に、豊穣の “希望” を託していたのだろう。
そこから劇形式へと発展したコメディは、その根本に、庶民の苦しみと富裕層への批判精神をもっている。アリストテレスいわく「社会的地位の高い人間を再現するのが悲劇であり、社会的地位の低い人間を再現するのが喜劇である」。

『ポケット一杯の幸福』には、喜劇として重大な欠陥がある。

ギャングのボス・デイヴにはあり余るほどの金があるし、この権力者が良いヤツなもんだから、庶民の苦しみも、富裕層への批判精神もそこにはない。支配者の人徳を讃えるかのようなラストの奇蹟は、庶民を置いてきぼりにし、 “幻想” に見えるのだ。

ジャッキーは果敢にも、この物語にプロローグを付けた。
そしてタイトルも大胆に『奇蹟/ミラクル』。

主人公コウ(ジャッキー・チェン)は、田舎から仕事を探しに香港へ出てきた貧しい青年。意気揚々と仲介人に手付金を支払うも、それは詐欺だった。
無一文になったコウは、慰みに花売りの老婆から一輪の花を買う。そのおかげで奇蹟的に命拾いするコウ。その流れで、ひょんなことからギャング集団のボスを任されることに(ここはジャッキーお得意のパワープレー)……。

以降は原作にかなり忠実に話が進んでいく。

しかしコウは裕福を知らない市井の青年。取引などどうでもいいし、金にも無頓着。ただひたすらに気の毒な老婆を救おうと、慣れぬ贅沢に翻弄されつつ、娘の歓迎パーティーの仕込みを進める。でも上手くいかない。やっぱり金だけでは何も解決できない。
そこへ舞い込む「奇蹟」。
苦しい思いを知るすべての庶民を讃える結末は、 “幻想” ではなく “希望” である。

やり過ごす平日の終わりに欲しいのは、 “幻想” ではなく “希望” である。

喜劇はそんな “庶民=わたしたち” の話だから、奇蹟が起こるのだと思う。

(文・GunCrazyLarry)

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