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ハチとトマ #3

 蝉は求愛のために七日間鳴き続けるが、メスを射止められない蝉もいるのだろうか。蝉はその七日間のために、長い時間をかけて幼虫からさなぎへ、そして羽化をする。そこまで時間をかけたのに、それが報われないことはあるのだろうか。もし報われなかったとしたら、それは何が原因なのだろう。
 叫び続けていても、それをなかったことにされるのが、一番つらいことだと思う。他人が聞いてくれないのはまだいい。一番傷つくのは、自分が自分にかけている声を無視し、無視されることだ。もし僕が本当に自分のやりたいことに従ったとして、美術大学に進学していたら、その僕は今ごろ何をしているんだろうと妄想する。文化祭に向けての超大作を制作しているのだろうか。お酒を飲みながら、仲間と自分の作品について語り明かしているのだろうか。そんなのもう「たられば」の話だし、もし社会人になってしまったらもう二度と美術大学なんて目指さないのだろう。
 ベッドから起き上がり、クローゼットから元気な頃に描いていた自分のキャンバス絵を取りだしてみる。筆に迷いはあるが、目指すべき方向は確固たるものである、そんな印象を持つ絵たち。僕はまたひとつ、はぁ、と溜め息をついた。
「何見てんの?」
 わっ、とびっくりして振り向くと、そこには棒アイスを口にくわえたハチが立っていた。
「俺はゾンビか」
「家に黙って上がり込んで人の後ろにぼーっと突っ立っているヤツの方がどう考えても怖いだろ」
「いや鍵開いてたから」
「お前がいちいちノックするのが面倒だからこの夏休み中は鍵開けとけって言ったんだろ!」
「で、何見てたの?」
 僕は手に持っている絵を慌てて隠した。
「なんで隠すんだよ!」
「だって恥ずかしいもん」
「いいじゃん、減るもんじゃあるまいし」
 と、ハチは無理矢理クローゼットをこじあけた。
「……絵?お前が描いたの?」
「そ、そうだよ」
 ふーん、といいながら、ハチは舐め回すように僕の描いた絵をしげしげと見始めた。
「……そんなにじろじろ見るなよ」
「あ、そう?いや、結構いい絵だなーと思って」
「え?嘘だ。こういう時に気を遣うんじゃなくて他のところで気を遣ってくれよ」
「俺がお前に気を遣ってどうするんだよ。いや、いい絵だって」
 ……どうして。
「どうしてそう思うのさ」
「どうしてって……そう思うからそう思うとしか言いようがないんだけどなぁ」
「やっぱり嘘だ」
「嘘じゃねぇよ。あのさぁ」
 と、ハチは一呼吸置いた後、こう続けた。
「お前、自分で自分のこと褒めたことあるか?」
「え?そんなことあるわけねぇだろ」
「どうして」
「だって……」
 だって。
「自分で自分を許したら、これ以上成長できなくなりそうっていうか」
「それ、実際にやったことある?」
「え?」
「だから、一つの絵が完成したときに、絵が描けたこととか、改めて完成した自分の絵を見て、褒めるってことを実際にやってみたことはあるの?」
「ないよ、そんなこと」
「ないのに俺が言ってることを最初から否定するなや」
 ハチは何に熱を帯びているのか、強めの口調で続ける。
「お前、まず、自分がどんなものを持っているのか見つけてみろよ」
「そんな……俺には何もないよ」
「何もないって思ってるから何もないの。探そうとしないから何もないの」
 あぁ、そうか。
 探そうとしないから、何もないと感じているのか。
「……ごめん。強く言い過ぎた」
 ハチは珍しく恐縮そうに僕を見る。
「ううん、ありがとう。ちょっと元気出た」
 誰にでも、この世に持ってきた武器は必ずあるのかもしれない。その武器に気づくか、気づかないかの話かもしれない。


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