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子どもが失敗する自由ってあるよなぁ、と思った話

失敗ってやっかいだ。リカバリーが大変。後始末が面倒。
それでも失敗は色んなことを教えてくれる。

娘に朝、人参ジュースのパックを持たせて飲ませている。
最初は強く持ちすぎて、びしゃー!とジュースが飛び出して服にかかってしまい、(あちゃー…)と内心悲鳴をあげたものだ。何度服をウタマロ先生をかけてゴシゴシ洗ったことか。
でも最近、そういえばジュースをこぼさなくなってきた。娘なりに、力加減を間違えると飲める量が少なくなると学習したんだろう。

失敗が教えてくれることがある。それは娘だけじゃなくて、私にも言えること。
ピアノの発表会に向けてどうやってモチベーションをあげていくか。
仕事をプレッシャーに潰されずに、体を労りながら楽しく続けていくコツ。
そういうものは、七転八倒しながら身につけたものだ。
母親業だってそうだ。
やってみて「あぁこれは違うんだ」と分かったことが、
どれだけ人生の奥深さ、それに気付ける喜びを教えてくれただろう。
過去のnoteを読み返しても、そう思う。
(私のnoteは、たいがい上手くいかなかった経験から学んだことを書いているから)

そのときはみっともないかもしれない。
恥ずかしいかもしれない。
他人の目を気にしてしまうかもしれない。

けれど失敗したということは、
ちゃんと自分で自分の進む道を決められたということでもある。
それが例え惰性であっても。
だらだらしてるうちになんとなくそうなってしまったとしても。
誰かに決められた道で嫌な目にあっても、それを決めた誰かが悪いのであるから、自分の行いを直そうとは思わないだろう。

子どもに失敗をさせない怖さはここにあると、
最近ようやく腹落ちできてきた気がする。
(私が娘に過保護になるかもと心配して、失敗を見守るスキルってどんな感じだろうと日頃思っていた。)

失敗して悲しんでいる子どもの顔を見たくなくて半ば強制に正解を選ばせたとする。
それは、「子ども自身が選んで決める経験をさせなかった」裏返しでもあるんだ。
それは人生の主導権の話でもある。

全部が全部、子どもに決めさせるのがよいわけでもないと思う。
この世のことを知らないがために犯罪に加担してしまうリスクもある。
勉強のように、長期的な目線でないとありがたみが分からないものもある。

けれど全部が全部、子どもから主導権を奪っていたら、
大人になって何も自分で決められなくなってしまうじゃないか。
それは、何より恐ろしいことだ。
生きる喜びを奪うことだ。

肝に命じようと思う。

これからの私の仕事は
「正解はこちら」
と看板を立て掛けることではない。
「こうしなくちゃだめ」
と指図することでもない。

大事なのはきっと、
子どもへの情報提供と、少しの助力。
こんな考え方もあるよ。
こんな世界もあるよ。
そう伝えて子どもの判断する材料を増やすこと。
そうはいっても時には犯罪などの悪からは
強制でも遠ざけること。

そして、
もし失敗をして娘が悲しい顔をした時には、
一緒に悲しみを分かち合うこと。
焦らないで隣にいること。笑顔を強要しないこと。
娘だったら、時が来れば、起こったことを反芻して次に進む道を自分で決められると信じること。

そんな感じで。
これから先、
もし子どもが失敗で悲しい顔をしたとしても、
やっかいな問題を私も対処することになったとしても、
実はそれは辛いことばかりじゃなくて、
生きる喜びを知る第一歩。
そう思うとちょっとは辛抱強く見守れる気がした。
という話でした。
人参ジュースからだいぶ話が飛躍しましたが。

失敗する自由は、私自身にも言えることですね。