まだらに女性活躍が進む今、むしろ苦しくなるけど
たぶん、世の中で進む女性活躍は、まだら模様だ。私達は過渡期を生きている。
家族、同僚、周囲のサポートが整っていて能力をいかんなく発揮できる人がある。あるいは劣悪な環境でも規格外にデキて会社の生存競争を生き抜いた人がいる。
でも全員がそうじゃない。
サポートが整っていないケースだって、まだまだたくさんある。
規格外の能力なんてないいたって普通の人間だって、普通にごろごろいる。
私だって普通の人間だ。だったのだと、やってみて気づいてしまった。最初の頃は、仕事をバリバリして、子ども2人もつものだとなんとなく思った。現実は、メンタル休職したし、子どもは1人を生きさせるのがやっとだった。
ネットのユースケースをみればワーママでも仕事をして子供ができている人がいる。けれども自分の状況をみてみると、とてもそうできるとは思えない状況。これって私が悪いの?環境が悪いの?この自問自答、とっても苦しい。環境が悪いと思えば環境がいやになり、自分が悪いと思えば自分が嫌になる。どちらにせよ嫌な気持ちになる。まだら模様に女性活躍が進んでるせいで、同じ女性同士でも分かりあえない。男性とならなお分かりあえない。孤独。
きっと過渡期の痛みなんだろうなぁと最近思ってる。女性は仕事において、それぞれの時代で、それぞれの痛みと戦ってきた。
遠い昔、男女雇用機会均等法ができる前、女性は予防線をはり「女には仕事はむり」と言い聞かせるしかなかったんじゃないか。そこには、自分を低くみないといけない卑屈な痛みがあったと思う。
男性雇用機会均等法ができた後は、今度は自分のなかの女性をなくして男性と同様に働く痛みもあったと思う。
今の時代はまだらに進む女性活躍への葛藤の痛みだ。仕事はできる。条件が整えば。光をみてしまって自分の影が濃くなる。
これはこれで苦しい時代だよなぁ。
でも。
痛いのは現実と戦ってる証だよなとも思う。
少なくとも昔の大先輩はこれを味わわせてもらえなかったわけだ。土俵に立つことすら許されなかった。いいんだか悪いんだかわかんないけど、それをいま享受している。
世の中なんて文明化してみんな賢くて理性的みたいな顔しちゃってはけど、それでいて根っこのところは動物的で、本能的で、自分の居場所を守るのに必死。お互い様とはいえ、そんな中で既存の枠組みを外そうとしたら大変。
私は痛みを誇りに思うし、いま痛みに顔を歪めている人がいたら「痛くなちゃう懸命なあなたが私は好き」って言いたい。懸命のわけが純粋に仕事でなくたって、お金でも、プライドでも意地でも、なんだってよくて、人間らしく欲を抱えて世の中とぶつかってる様は、生きてるってこういうことだなぁ、愛しいなぁ、と私は思ってしまうのだ。
頑張ってもいいし、もう頑張らなくたっていい。行ったり来たりしていい。辛くなったっていい。胸を張れないときがあっていい。誰の許しもいらない。つまりは好きに生きていい。
時代というゲームの場面設定は動かしようがない。だったら、このマスの上で次どうするかを考える私の顔には、せめて不適な笑みを浮かべていたい。
と、さんざーん悪態ついてべしょべしょに泣いたすえ、思う私だ。