ちゃんと嵌まらない
【7778】
がこん。と鈍い音とともに数字が止まる。
当たらないとわかっていても数字をみる自分が毎度滑稽である。別に2本出たところで、持ち物に困るしと事実と重なる言い訳とかき混ぜながら。
自動販売機の抽選の確率は何%か知っていますか?
案外2パーセントという数字。50本に一本。私は「高確率じゃん。」と調べついでにぼそっと呟いた。
0.001パーセントとかの方が腑に落ちたんですけど、と頭をモヤモヤさせながらやっと冷房の風を感じることのできた電車に揺られ水を口に含む。
そんな高確率なものが当たらないんだ、そしてどこかで当たっている人がいるんだと言葉のまま脳内で再生した。まだそんなことを考えていた。
羨ましいとかではなくて、昔付き合っていたあの人なら当たるんだろうな〜とかそっちの意味で捉えていた。どうせ、「ん?これ?当たったんだけど邪魔だしあげる〜。私運いいんだよね!今日も!」とニカニカしていやがるんだろうな本日も、居ておくれよと不必要な願いも込めて想像してしまっていた。
ああ、嵌まらない。今日も今日とて右耳のイヤホンの嵌りが悪すぎる。
耳の中の湿度が高いのか?毎度イライラとさせられる。
きっと、賢く効率的な忙しく生きる私の友達は、すぐにこんなストレスケースにちゃきちゃきと戻し、車内の広告を見ながらぼーっと思うんでしょう。(キャッチの部分変えてみよう。そうだ。百円均一寄ろう。)と。
休職中(元の職場に戻る気はないのでほぼ無職)の時間を弄ばせた私は、今日もストレスを感じ歯を食いしばり右耳の穴にイヤホンを押し込む。
外れそうになりながら流れる音楽に神経を集中させる。
音楽という娯楽も聞けるようになったのは1ヶ月前。津波のような感情の唸りを経て今は、なんとなく生きれるようになった。人並みの速さで歩くことはできるし、お昼か、お腹すいたなポンデリングでも久々に食べたいななんて、思えるくらいにはなっていた。健常者であったとき「面談?時間あるなら働きたいっすよ〜。」と調子づいている自分を殴りたい。その時の自分に必要性を伝えたとて1ミリも響かなそう、いや聞く耳を持たないからだ。
気になる音楽を調べてから聞くと一曲が永遠にループするのが今の私の頭に悪いと勝手に思い、シャッフルという機能を覚えた。
しかしこれも、しっくりくる曲と来ない曲がある。これじゃないんだよな、これ流行ってるよねなんか違うんだよな、など思考を巡らせてしまう。本当にめんどくせえ人間だなと思いながら、イヤホンが外れないように体をこわばらせて電車に揺られていた。強張らせたから耳から外れない保証などないのに。
今日は久々の受診日。
久々と感じるのは、多分少し私の中で調子がいいから。病院から病院の期間の狭間で、"進歩"したような気持ちがするから。
この気持ちの高揚も病気か?また大波が来てああ、調子がいいなんて体が幻想を見せていた嘘だよななんて期待をするのも嫌でなんとなくしか生きられない感じ。
また言い訳かあと自分は返事をしながら病院へ向かう。
病院ではいつもの先生(ぱんださん)が今日もどしっと座り「こんにちは〜。どうですかあ。」と目の玉が入っているとは思えないほどに目を細め、私に問う。
上記の気持ちは予期不安であることがわかった。
「落ちるまでやってみなさい。」
と言われたがあの谷底にとゾッとする。
私にも怖いものはあるんだと久々の確固たる自信に、(自分を大切に思ってんじゃん)と成長を感じた前向きな感情を形成する。
時間は巻き戻る。時刻は9時41分。「時間だ」と人が多くなってきた電車を隙間を縫って降りた。
地下鉄に乗るのも先月引っ越してからのことであったので駅の内装は全て一緒に見える。電車によっては古い車種だと今どこ駅にいるのか把握できない。そしてこの立場になって思うのが駅の看板少なくなってる?みたいなアハ体験をしている。
何か違和感を感じながら10時から始まる受診へスムーズに間に合うように足を動かす。
「やっぱり。」
目的地より一つ前の駅であった(多分)。目印である野球場は背が低くて見えないが、近くにある永遠に駅前で建設中のビルの背丈は多分高くなっているのだろう、よく見えた。(私が初めて病院に来てからビル育ってるのかな、何人の人が関わってるのかな、地面師詐欺にあわなかったんだな)余計なことをポツポツ頭が勝手に呟いていた。
地図を見ずにそちらは歩く。電車の時刻といい、適当がすぎて腹立たしく思われることが人より多い人生だと思う。読者にも、ラブコメをみるくらいにイライラさせていたら申し訳ないと頭は下がるが、私は私という人間で、変わる努力はしないと思う。
私が良く?というより気がついた時に連絡を取り合う友達にはわかる行動であろうと期待する。恋人や私と間が合わないやつへは共有しないネタの撮り溜め。程々にしたい。
さて。いつもと違う景色。
なんとなくこんなことにも慣れているので平気な顔が得意になっていた。私はやっぱりトラブルのあることに向いていると「私運あるんだ〜」と重ねてオマージュ。
やっぱり時間ギリギリについた。
受付のおばさんは、最初は優しかったのに私が回復するとともに対応が冷たくなると感じるのはなんでだろう。「時間ギリギリだからだよ」「裏のおじさんと合わないのかな」「電話対応とか、精神病のある人との会話疲れるんだろうな」「救外で働いてた時も辛かったもんな」と撒いた時間にどんどん伸びてまた種を蒔こうとするものをバチバチと伐採していたころ、気がついたら診察が終わっていた。
病院の帰りはスッキリとした気持ちと出される余分な安定剤の処方というお土産に、"はい。病気。だから働かなくていいんだよ"と優しさの中に社会から疎ましがられるステッカーをべたっと貼られた気持ちになる。
「病院の行く日になると、自分が病気であることを思い知らされる。」なんか、よく耳にするなと思えば、SNSの体験記の読みすぎであった。
こうやって私含めてみんなが思うこと。私も周りと同じじゃんなんてドツボにはまっていくなと馬鹿馬鹿しくなった。
人との差異を求める世間の人事(人々)は『自分らしさ』という言葉に変えて至る所に看板を張り巡らせる。今の時代に合わせた普遍的な言葉を前向きで、
「ジェンダー問題も、ゆとり問題も、精神障害も、知的障害も、グレーゾーンも、子育て問題もみんないてみんないい!!!(ということでみんな私の会社に投資して!)」とメッセージを送る。
デザイナーと企業の話し合いが容易に想像できる。そんなことがないかもしれないが、そう感じる私の脳ではみんなが私を馬鹿にしているように感じる。本当に生きにくいし頭が痛い。
ここでもあそこでも私はピタッと嵌まることができずに今日も3年後はどこで誰と生きようか、どんな人間であろうかと見返しもしないメモ帳に吐き溜めてゆく。
この世に不平不満をもつどこにでもいる私というピースはどこにも嵌まらない。そういうつまらない大学生のような意見を25になってもまだ持ってぷらぷらと生きている。
このつまらない意地をはらなくなった時は、不平不満の世に馴染んだ私の終わりだと思っている。
(コラム)
私は【二十代で得た所見】を読んだ。
作者のf(さん)のことは私はミーハーです!という言葉に逃げたいので語ることは難しいが、初めてみた「真夜中乙女戦争」の異様な展開の連続とグロさがないのにグロい現実を映像だけでなく文庫で表現することへの感動を素直に感じた。その触感が残っている。
fさんは文化の中でこう述べていた。
「つまらないと嘆く大人にはなりたくない。私の尊敬する作家の先輩はそんなこと嘆く人ではないと思っていた。失望した。渇望した。」
つつげて
「つまらないと思うなら作ればいい。作れよと怒鳴りそうになった」
そんなようなことを書いていた。fは自分の言葉に追いかけられながら実現をする自分で自分を指名手配犯のように追い込む人だなと思った。
なにか重ねた部分はあった。なにの正体は嗅いだことのない異臭がして、喉の出ない場所にしまってある。
矛盾の多い本であったが、矛盾が色んな世代にハマった本であった。SNSに自分は共感しました!と見せかけのファンを装いあたかも自分がバズらせたんです!フォロワーをご覧なさい!というバイヤーをどう認識しているのだろうか。
そんなありきたりな質問に答えてくれる日はくるのだろうか。私の生きる楽しみはもがき苦しむ人が普通に質問に答える日なのかもしれない。
終わり