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【考察と感想】百年の孤独/ガブリエル・ガルシア=マルケス

 読了後の今になって思う。長い歳月が流れて初めて家庭というものを持つことになったとき、恐らく僕は、孤独から逃げるように孤独に浸った、あの湿気と暑さが抜けきらぬ生誕の夜を思い出すにちがいないと。

はじめに。

  今回の記事では 、ガブリエル・ガルシア=マルケス著【百年の孤独】 に対する、僕なりの考察と感想を書いていこうと思います。

 『百年の孤独』は、南米に住むブエンディア一族がマコンドという村を作り、その繁栄から滅亡までの百年間を描いた伝記となっています。ジャンルとしては『ラテンアメリカ文学』となりますね。

 後述しますが、マジックリアリズムという独特な手法で描かれており、ストーリーというよりも「ガルシア・マルケスの巧妙な文章から成る圧倒的な世界観を、傍観者としての立場で楽しめるかどうか」が、この本を最後まで読み切る分水嶺になる、と僕は思います。

 また、今回の感想記事ではネタバレも沢山あります。でも『百年の孤独』においては、「結末を知ってしまったから読む価値が無くなる」という事は決して無いです。何回読んでも、その時々の自分の心境や積み重ねた人生観によって、違った感想が芽生えるはずです。

 貴方がまだ『百年の孤独』を読んでいないのか、あるいは既に読了済みかは分からないけど、どちらにしても『百年の孤独』に興味を惹かれたのなら、是非最後まで読んでみて下さい。

文章の特徴。

 『百年の孤独』はこんな書き出しから始まります。

長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したにちがいない。マコンドも当時は、先史時代のけものの卵のようにすべすべした、白くて大きな石がごろごろしている瀬を、澄んだ水が勢いよく落ちていく川のほとりに、葦と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。
【ガブリエル・ガルシア=マルケス、『百年の孤独』より引用】

 ……一文長くねっ!?  ってなりますよね 笑

ですが、この書き出しが本作の特徴を鮮明に語っておられるように思います。

①一文で多岐に渡る時間軸を表現。
 最初の書き出しの中に、3つの時間軸がある事に気が付きましたか?
1.銃殺隊の前に立っている大佐。
2.遠い日の午後、初めて氷を見た大佐。
3.思い出したに"ちがいない"という、1を未来から語る第三者。

こんな感じで、一文中に複数の時間軸が入り混じった「作中人物の未来を暗示する表現」が度々出てきます。

中には「数か月後、○○と結婚することになる彼女は」とか「数日後○○で死ぬことになる彼は」のように、重大なネタバレをぶっこんで来ることもあります 笑

ですが、不思議と不快感がなく惹き込まれ、続きが気になって仕方なくなってしまいます。


②過剰な補語を使い、一文で鮮明な情景描写を表現。
 二文目ですが、「マコンドも当時は、葦と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。」だけでも読みやすくて良さそうな感じがします。

でも、あえて過剰に補語を加える事で、まるでその出来事が目の前で起こっているかのような、より鮮明な情景描写をされております。

特に「先史時代のけものの卵のようにすべすべした、白くて大きな石」とか普通の人では思い付かないような独特な表現の仕方が、言葉の自由さや秘められた可能性を感じさせてくれますね。

そしてもう一つ、この作品はマジックリアリズムという表現方法が踏んだんに使われている事でも有名です。

マジックリアリズムについて。

 マジックリアリズムとは、「超常的な非日常を現実的な日常として表現する手法」です。

早速作中の例を見てみましょう。

仕事にかかるかかからないかにアマランタが、小町娘のレメディオスの顔が透きとおって見えるほど異様に青白いことに気づいて、「どこか具合でも悪いの?」と尋ねた。すると、シーツの向こう把持を持った小町娘のレメディオスは、相手を哀れむような微笑を浮かべて答えた
「いいえ、その反対よ。こんなに気分がいいのは初めて」
 彼女がそう言ったとたんに、フェルナンダは、光をはらんだ弱々しい風がその手からシーツを奪って、いっぱいにひろげるのを見た。自分のペチコートのレース飾りが妖しく震えるのを感じたアマランタが、よろけまいとして懸命にシーツにしがみついた瞬間である。小町娘のレメディオスの体がふわりと宙に浮いた。ほとんど視力を失っていたが、ウルスラひとりが落ち着いていて、この防ぎようのない風の本性を見きわめ、シーツを光の手にゆだねた。目まぐるしくはばたくシーツにつつまれながら、別れの手を振っている小町娘のレメディオスの姿が見えた。彼女はシーツに抱かれて舞いあがり、黄金虫やダリヤの花のただよう風を見捨て、午後の四時も終わろうとする風のなかを抜けて、もっとも高く飛ぶことのできる記憶の鳥でさえ追っていけないはるかな高みへ、永遠に姿を消した。
【ガブリエル・ガルシア=マルケス、『百年の孤独』より引用】


 これはレメディオスという、あまりの美貌で周りの男が一瞬にして虜になってしまう魔性の魅力を秘めた町一番の美少女が、突如、昇天する場面です。

このシーンの直前までは何の予兆もなく、幸せな暮らしが描かれているのですが、突如として天に消え、それ以降戻ってくることはありませんでした。

 普通では有り得ない、非日常的な出来事ですよね?

一般的な小説だと、仮に登場人物が行きなり天に召されたら、周囲の人間の驚きや恐れといった、感情の変化が事細かに描写されると思います。だって、現実では有り得ないことなんだから。

ですが、語り手は誰の感情も覗かず、ただ淡々と事実を語るのみです。

『百年の孤独』の魅力はここにあると僕は思います。

 登場人物に敢えて寄り添わず、非日常を淡々と事細かに、嫌になるほど過剰な情報が詰め込まれたリアリズムで描かく事で、日常との乖離をギリギリの所で留め、 "非日常が日常として起こり得てしまう" そんな蜃気楼のような世界観を作り出しているんです。

だから読み手は、まるでそれが現実で、本当に起こった事のように追体験させられてしまう。そして、そんな空間に浸っていたくなってしまう。

これが、マジックリアリズムです。

 他にも、チョコレートを飲んで空中浮遊する神父だったり、不眠症が蔓延して町中の人々が文字通り全く眠れなくなったり、数年間ずっと降り続ける雨だったり、普通じゃない出来事が沢山起こりますので、その独特な世界観を楽しんで見てください!

読み進めるコツ。

 この『百年の孤独』ですが、文章の難しさ以外にも、読者を悩ませる問題点があります 笑

こいつら本当に厄介な一族でして……。

自分の子供に家族と同じ名前を付けます…………。

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 この家系図を見てもらえば分かる通り、アルカディオやらアウレリャノやら似たような名前ばっかりで、読んでて非常に混乱します。ただでさえ読み難しい文章のうえ、名前までややこしいので、何となくで読んでたら挫折します。

正直僕は「2ページ読んで1ページ戻る」という奇行を繰り返しておりました 笑

読み進めるコツとして
①全部理解しようとせず、マイペースに、文章や世界観そのものを楽しむ。
②家系図を確認しながら読む。
③読むのが苦痛なら読まない。

以上を勧めておきます。特に③ですが、読書って苦痛を感じながらするものでも無いですし、年月を経て、自分の心境が変わった頃にまた手に取れば良いと思います。本は勝手に消えたりしないので。

どこか、見知らぬ地で見知らぬ酒を自分のペースで煽る。そんな楽しみ方をしてみてはどうでしょうか。

アマランタとレベーカ

 次は好きな登場人物やシーンについて語って行こうと思います。

 僕は個人的に、女性陣の方が共感出来る部分があるなーと思いました。特にアマランタレベーカです。

 ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラとの間に産まれたアマランタと、もらわれ子のレベーカ。二人は姉妹同然に育てられ、仲良く暮らしていました。

ですが、二人にダンスを仕込ませるために派遣されたイタリア人のピアニスト、ピエトロ・クレスピの恋敵となり、お互いに憎み合うようになってしまいます。

結果、レベーカがピエトロ・クレスピと婚約する事になるのですが、アマランタの過剰なまでの嫉妬がレベーカの幸せを許しません。それはそれは巧妙な罠を仕掛けまくり、結婚式を延期させます。

そして、その結果が齎した不幸な事故でアウレリャノ・ブエンディア大佐の妻、レメディオスを殺めることに。また、それが発端となって二人が喪に服し休戦をとっている間に、家を出て行方不明になっていた長男、ホセ・アルカディオが魅力的な姿となって戻ってきます。

レベーカはこのホセ・アルカディオに一目惚れし、数日たたぬ内に二人は結婚。捨てられたピエトロ・クレスピは悲しみに打ちひしがれますが、何とか乗り越え、今度はアマランタと恋仲になり、求婚します。

ですが、アマランタは自分があれ程までに望んだものが手に入る直前になって、これを拒絶してしまうのです。そして、再び悲しみの渦に突き落とされたピエトロ・クレスピは、その手で自らの命を絶ってしまう。

そんな悲しいお話です。

 独身の僕が言うのもおこがましいですが、結婚ってタイミングが重要だったりするんだと思います。だから、ここでレベーカの取った行動は何となく理解出来ます。散々引き延ばされて、熱も冷めてきた頃に、新しい熱風が吹いてしまえば、そっちに行きたくなるのも分かります。

 アマランタにしても、自分が取った行動が原因で身内の大切な人が死んでしまった訳で、そんな自分が幸せになって良いのか、という罪悪感があったのかも知れません。

また、レベーカに対する相当な嫉妬や愛憎がありましたから、ピエトロ・クレスピの愛を拒絶し、敢えて幸せにならない事で、「一生レベーカの心の重荷であり続ける」そんな復讐の道を選んだのかも知れません。

にしても、ピエトロ・クレスピ可哀想過ぎますね……。

 また、アマランタはそれ以降にも、アウレリャノ・ブエンディア大佐の親友であるヘリネルド・マルケス大佐からの求愛も断ってしまいます。

「わたしのことは、これっきり忘れてちょうだい。ふたりとも、こんなことをしている年じゃないわ」
そのあと、彼女はひとり寝室にこもり、死が訪れるまで続くにちがいないわびしい日々を思って泣いた。
【ガブリエル・ガルシア=マルケス、『百年の孤独』より引用】

 勿論この場面でも彼女は、ヘリネルド・マルケス大佐を想っていました。ただ一言、それに応じれば手に入った幸せを、愛を、二度も拒絶したんです。

 この本は視点が登場人物の心情にほとんど触れません。でも、何となくアマランタの気持ちが分かるような気がします。

「そのあと、彼女はひとり寝室にこもり、死が訪れるまで続くにちがいないわびしい日々を思って泣いた。」

とあるように、そこには後悔や孤独が渦巻いています。醜い嫉妬心から、レメディオスを殺してしまった罪悪感や、執拗にレベーカの幸せを邪魔し、醜い復讐の為に愛を拒んできた独りよがりな自分。

そんな自分に対しての激しい罪の意識や、そんな奴が今更、他人の愛に答えても良いのか、そんな奴が本当に他人を幸せに出来るのか、とか、そういった葛藤も彼女を追いつめていたと思います。だから、自責の念に対する逃げ場として一人でいる事に固執したのかも知れません。

また、それに対する彼女なりの罪滅ぼしが、死に際に実行した「皆の思いを手紙としてあの世へ届けること」だったように思います。

とにかく不器用なんですよね。過剰な程に。

作中で唯一、誰とも結ばれず、結局処女のままその生涯を終えた彼女の果てしない孤独は、どれ程のものだったのでしょうか。

アウレリャノ・ブエンディア大佐

 僕が思うに、作中で一番孤独な人として描かれているのが、アウレリャノ・ブエンディア大佐なんじゃないでしょうか。

 彼は作中で最も多くの女性と身体を混じらわせ、計18人の子供を作ります。生まれつき、何となく未来が予知出来る能力を備えていて、その正義感の強さから参加した戦争では立役者となり、多くの人から慕われることになります。

ですが、戦争での度重なる苦痛の数々、妻レメディオスの死、周りとは違う能力を持った異質な自分。そんな波乱に満ちた人生を送った大佐は、老後では精神を病み、段々と物事に対する関心も消えて行き、死を待ちわびるだけの廃人となって、最後は一人孤独に死を迎えます。

周りに多くの人がいながら、一番孤独に描かれていた人物のように思えました。

 誰とも関係を持たず、一番独りが多かったアマランタに対し、誰よりも多くの関係を持ち、慕われていたのにも関わらず、一番孤独な人として描かれた大佐。結局どちらも、果てしない孤独から開放されることなく、その生涯を終えるのでした。

「また出かけるのはいいけど」と、食事の途中で彼女は話しかけた。「せめて、今晩のわたしたちは忘れないでおくれ」
そう言われてアウレリャノ・ブエンディア大佐は、とくに驚きもしなかったが、自分の惨めさを理解しているのは、母親のウルスラだけだということを知った。そして、この長い年月一度もなかったことだが、彼女の顔をしげしげとながめた。(略)五十年以上にもなる日々の生活がその肌に残していったひっ掻き傷や、みみず腫れや、鞍傷や、腫物や、癒えた傷痕などが一瞬のうちに目にはいったが、同時に彼は、その無惨な姿が自分の心に憐憫の情さえ呼び起こさないことを知った。最後の力をふりしぼって、恩愛の情の腐れていった場所を心のうちに探ったが、突きとめられなかった。少なくとも昔は、何かの拍子でウルスラの体臭を自分の肌にも感じると、漠然とした恥ずかしさを覚えたものだった。(略)ところが、戦争によってすべてが消えてしまっていた。今では妻のレメディオスでさえ、自分の娘だと言ってもおかしくない年ごろの女という、ぼんやりしたイメージしか残していなかった。愛の砂漠で知り、彼の種を沿岸の地方一帯にまき散らした無数の女の痕跡は、彼の感情のどこにも見当たらなかった。(略)時の流れと戦乱に耐えて今も生きている思い出はただひとつ、ともに子供だったころの兄ホセ・アルカディオへの愛だが、しかしそれも、愛情というよりは共犯者の意識に近かった。
「悪いけど、ママ」と、ウルスラの頼みを聞いて、彼はすまなさそうな顔で言った。「この戦争で何もかも忘れてしまって」
【ガブリエル・ガルシア=マルケス、『百年の孤独』より引用】

 『百年の孤独』の登場人物は皆、支えようとしてくれる家族が周りにいてくれます。物理的に言えば、登場人物の誰も孤独ではないんです。でも一族全員、孤独の呪縛からは開放されず、心の深淵が満たされないまま、悲しい最後を遂げます。

そして、深淵とは文字通り、限界が計り知れない底知れない深さを意味します。そういう意味で考えると、心の深淵を埋める事は、本当に可能なのでしょうか?

唯一それを埋める事が出来るモノがあるとすれば、やはり『愛』なのでしょうか?

『百年の孤独』と僕らの世界。

 『百年の孤独』の後続の世代は、先代と同じように愛を求め孤独に溺れたり、過去と同じように争いや文化の発展を起こしていきます。基本的には一族の繰り返しの物語となり、結局は百年間、時代は変われど、本質的な部分は変わらず、同じ事を繰り返す訳です。

初めの内は、傍観者として見ていました。おかしな町で、おかしな一族だなぁって。

でも、気づいたら自分もその世界の住人の一人である事に気づかされたような気がします。だってこれって、現実、つまり僕らの世界にも当てはまる事だよなって。

ここまで進化した時代でさえ、人間の本質は百年、いや、それ以前から何も変わっていないですもんね。そこには嫉妬や復讐から繰り返された争いがあり、愛されたい、孤独から開放されたいという渇望。恋愛や人間関係での苦悩、永遠に満たされない孤独があります。

つまり僕らは、マコンドの百年間を通して、僕らの現実世界そのものを見せられていたんじゃないでしょうか。

まるで、蜃気楼のように。

『百年の孤独』の神髄。

 本作の中で、僕が一番衝撃的だった一文を紹介させて下さい。

 物語の最後、血縁者同士の行為によって、一族最後の者としてアウレリャノ(豚のしっぽ)(奇形児)が産まれた場面で、こんな印象的な語りがあります。

「この百年、愛によって生を授かった者はこれが初めてなので、これこそ、あらためて家系を創始し、忌むべき悪徳と宿命的な孤独をはらう運命をになった子のように思えた。」

【ガブリエル・ガルシア=マルケス、『百年の孤独』より引用】

 正直、この一文に僕はゾッとしました。

僕にはこの一文が『百年の孤独』のテーマの真髄を語ったように思えたからです。

 だって、僕にはそれ以前に生まれた一族間にも、『愛』によって生を授かった者がいたように思えました。初代ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラの間にすら、愛が無かったと?

この一文は「そこに見ていたものは錯覚で、ただ孤独を埋める為の虚像に過ぎなかった」と、僕に語りかけてきます。

つまるところ「ガルシア・マルケスが語る『愛』を僕はまだ知らない」と突き付けられた訳です。

彼の語る『愛』とは一体何なのだろうか?

 物語の最後にして、人間の根源たる本質を投げかけられた気がしたのは、僕だけでしょうか。

考察:ガルシア・マルケスが語る『愛』とは。

 だから、もう一度、『愛』をテーマにこの作品に触れてみました。

 誰かに愛されれば、孤独から開放されるような気がする。しかし、一方的な愛では、ピエトロ・クレスピのように、報われず、孤独が募るばかりとなる。

だから、愛される必要がある。そして、やはり、愛されるには、愛する必要がある。そういう意味では「人間は、孤独から開放されたいから、誰かを愛する」とも言える。

「誰かに愛されたいから、誰かを愛する」と。

つまり『愛』とは、「愛されたいという切望から産まれ、愛されている側の孤独を取り除いてくれるモノ」である。

本書を読むまで、僕は恐らくそう考えておりました。

でも、違ったのかも知れません。

 他者からの愛を生涯に渡り拒絶し続けたアマランタがそうであったように、愛に答えることは容易ではないです。一方的な愛に答える側には罪悪感や覚悟が付き纏います。ただ愛されるだけでは、孤独から開放される事はない。

また、家族全員に愛を向けて接したウルスラがそうであったように、愛すれば愛するだけ、その愛が帰ってくるとは限りません。愛の返報性の原理に絶対はないのだから。ただ愛するだけでは、孤独から開放される事はない。

そして、他の者がそうであったように、お互いがお互いに対して、独りよがりの愛を向けていては、そこに幸せは生まれません。ただ愛し、愛されるだけでは、孤独から開放される事はない。

 対して、悲しくも最後、アウレリャノとアマランタ・ウルスラは外の世界との関係を全て断ち、二人だけで生きることを選びました。

そこには家族、隣人、社会、野心、日常、時間の概念すらも残っておらず、お互いを思い合う『愛』だけが残った。傍から見れば一番孤独であったのかもしれません。

でも、2人は「互いを思い合った愛」で繋がったからこそ、その世界の誰よりも幸せだったのではないでしょうか?

小鳥たちにも見捨てられ、埃と暑さがひどくて呼吸もままならぬマコンドだったが、孤独と愛を求めて、愛の孤独を求めて、赤蟻の立てるすさまじい音でろくに眠ることさえできない屋敷に閉じこもったアウレリャノとアマランタ・ウルスラだけが、幸せだった。この世でもっとも幸福な存在だった。
【ガブリエル・ガルシア=マルケス、『百年の孤独』より引用】

 そういった事を踏まえて、改めてブエンディア一族の百年を振り返って見ると、最後のアウレリャノとアマランタ・ウルスラ以外の者の『愛』は、「己の性欲の為の愛」であったり、「己の孤独を埋める為の愛で」あったり、「己の正義の為の愛」であったり、とかく、「独りよがりの愛」が多く、「お互いの為の愛」が無かったに思えます。

ガルシア・マルケスに言わせれば、それは『愛』では無いのかも知れません。

愛するだけでは足りず、愛されるだけでも足りず、愛し合うだけでもまだ、不完全。

彼の語る『愛』とは「お互いが、お互いの為に向けた、歯車のように噛み合った共同体としての愛」なんじゃないでしょうか?

そこまでしてやっと、真の愛は産まれ、そしてそれこそが唯一『孤独を払い幸せになれる愛』となる可能性を秘めていると。

対称はかなり狭まりますが、アドラーの共同体感覚に近いような気もしますね。 

以上が、僕なりのガルシアマルケスの『愛』についての考察です。


――ですが、まだ疑問は残ります。

結論:儚い最後に込められたメッセージ。

 『百年の孤独』では、やっと成就した百年越しの奇跡と呼べる『愛』も、一瞬にして儚く散ってしまいます。まるで蜃気楼の中に浮かぶ、オーロラのように……。

 念願の愛を成就させ、共同体として幸せになったはずの二人だが、何故こうも儚く悲しい最後を遂げたのだろうか?

結局、二人は孤独だったのではないだろうか?

奇跡にも等しい『愛』から何故、不吉や不完全の象徴たる豚のしっぽが産まれたのだろうか?

そんな疑問が拭い切れなかったので、今一度振り返ってみることにしました。そして、ある結論に達しました。

 ブエンディア一族の最大の特徴は、その過剰さにあるように思います。過剰な野心。過剰な性欲。過剰な嫉妬。過剰な正義。

そして「最後の者が持って生まれた性質が過剰な『愛』であり、その過剰愛が、幸せを生み出した」と解釈しました。

でも、それを否定するかのように、その愛からは、不完全の象徴である「豚のしっぽ(奇形児)」が生み出され、二人は幸せではあったものの、孤独であり、悲しい最後を遂げる訳です。

これが意味する事はなんやろなって、更にめちゃくちゃ考えました。

 僕の中の結論としては「『愛』だけじゃ生は全う出来ない」ということです。

「愛に満ちて幸せになること」って、皆がそうなりたい素晴らしい事だと思います。でも、苦悩や悲しみや怒り、なにより孤独があるからこそ、人間は喜びや楽しみを求め変化を願い、成長していくんです。

しかし最後、アウレリャノとアマランタ・ウルスラは、朽ち果てて行く屋敷を修繕せず、お互い以外の人間関係を断ち、2人の共同体としての愛にのみ固執しました。

そして、人間としての苦悩から逃げることを選んだ彼らは、悲しい世界の終焉を迎えます。

そういった見方で触れてみると、ガルシア・マルケスは『愛』について、「幸せに繋がる真の愛とは、互いを慮った共同体としての愛であるが、愛だけでは生を全うする事は出来ない。」という人間の本質を伝えたかったのかも知れません。

 以上が、僕なりの『百年の孤独』に対する、現時点での解釈になります。


まとめ。

 いやぁ、本当に素晴らしい作品でした! とにかく深いですね!

正直言うと、別に感想とか書くつもり無かったですし、最初は世界文学読んでる俺かっけぇくらいの気持ちで読もうとしてました 笑

でも、読み進めて文体に慣れる程ドンドン世界観にのめり込んでいた自分がいて「これは! これは絶対周りの人にも読んで欲しい!」「読んだ人と感想を共有したい!」って気持ちになったので、こうやって感想文を書いてみました。

また、本作品を通して『孤独』『愛』など、色々語らせてもらった僕が言うのもなんですが、この手の概念的なモノは結局、答えがないのが答えだったりします。

ましてや当時と今では、時代背景、歴史、文化、宗教、思想。そういった価値観の違いがあり、美とされていたものも異なります。

でも、だからって考るのが無駄だとかそう言う話ではなくて。

自分の長い人生を通して、時に誰かと一緒に考えたり、あるいは一人でとことん悩んでみたり、その過程の中で色々な気付きが生まれて……。僕達はそうやって成長して行くんだと思っています。

人間の成長に限界は無いのだから。

さて、まだまだ伝えたい魅力は山程あるのですが、もうキリがないので(笑)  あとはご自分で『百年の孤独』の世界を覗いて見てくださいませ。

そして読んだよって方は、Twitterでも何でも良いので感想を聞かせて下さい。冒頭でも言いましたが、ネタバレがネタバレにならん作品なんです。

 それでは、最後にこれだけ言わせてください。

 壮絶なエンディングを経て『百年の孤独』絶望を見出すのか、はたまた希望を見出すのかは勿論読み手の自由となります。

でも、決してこれは絶望を語った物語ではないと僕は思っています。

果てしない可能性を秘めた、人間への賛歌なんだと。


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