家のコピー

【住宅と建築】01_1950年代「住宅」の始まりと2つの時代背景

1945年、日本は焼け野原になった。

【大量供給の時代】

第二次世界大戦終戦後、建築家に与えられた使命とはとにかく住宅を供給することだった。50年代の1つの情勢としては、大量供給というキーワードは欠かせない。

ル・コルビジェの弟子として有名な前川國男氏も、床と壁をパネル化した「プレモス」という木造量産型住宅を計画している。1000戸程作って役目を終えたそうだが、50年代、建築家はこぞって小規模住宅に取り組んでいた。

今は考えられないかもしれないが、住宅を工業化(システム化)することは、当時の建築家たちにとって、目指すべき課題だったのだ。

日本の住宅というのはその当時、平屋もしくは2階建が一般的で、関東大震災後に復興住宅として造られた「同潤会アパート」を除いて、ヨーロッパのような4、5階建の集合住宅は珍しかった。

しかし大量供給となると、戸建住宅よりもユニットを縦に積み重ねた集合住宅の方がはるかに効率が良い。

そこで住宅営団(旧同潤会)を参考に設立された日本住宅公団は「団地」を作り出した。標準化されたユニットを持つ集合住宅の存在は、住宅供給難という課題を解決に導いたのだった。

【計画学の全盛期】

標準化されたユニットプランに対して、意義を唱え、「どうしたら住みやすくなるか」を議論し始める建築家も多くいた。50年代の住宅は大量供給という時代と同時に「どうしたら人が豊かに暮らせるのか」。そう言った「計画学」を盛んに議論された時代でもあった。

西山夘三の「食寝分離論」の目的はまさにそこで、簡単に言えば「食べるところと寝るところくらいは分けた方が良い」というものだった。

そこからダイニングキッチン(DK)というキーワードが生み出された背景もある。

8畳の居間にあるちゃぶ台で食事をし、寝るときはちゃぶ台を部屋の隅に寄せて寝るという暮らし方に対して、部屋とは別にDKを作ると言う思想は新しい風を吹き込んだのだ。

東京大学の吉武泰水研究室の鈴木成分らも住宅ユニットの議論は活発に行われており、「食寝分離論」から「2DK」と言うユニットプランを記号で表現したのだ。

そしてそれこそが、日本住宅公団が1951年に発表した、「公営住宅51c型標準プラン」に繋がったと言われている。ダイニングキッチン(DK)が初めて取り組まれた「2DK」形式で50年代多くの集合住宅が計画されたのだ。

2つの部屋(子供部屋と主寝室)とは別にダイニングとキッチンがある住宅は夢の住まいとも言われ、発展して行った。

「51c型」から”nLDK”へ

「51c型」は社会に大きく貢献した。

「2DK」と言うユニットプランの記号化は、今も尚「nLDK」と言う形で残っている。60年以上たった現在でも、その記号化した言葉が継続するとは、誰が予想しただろうか。

夢の住まいとまで言われたユニット形式は、記号化だけが残り「nLDK」と言う「不動産用語」として販売に利用された。

戦後十数年で新しい「暮らし方」を提案し、良し悪しは別としても現在まで残るフォーマットになったことを考えれば、この功績は大きいと言って良い。

【1960年代へ】

60年代に入ってからも、建築家の関心は「小住宅」に向いていた。大量供給という建築家の使命は、住宅の工業化に直接参加するという夢として継続された。

しかし、「大量供給」を最も合理的なシステム化に成功したのは、建築家ではなかった。

それが「ハウスメーカー」の登場である。

※次回は「建築家の小住宅とハウスメーカーの商品住宅」について書きたいと考えています。

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