住宅4

【住宅と建築】04_1980年代 不況、そして再び「住宅」は都市に開く

1978年、第二次オイルショックによって日本は不況に陥る。

【不況から成長したハウスメーカー】

オイルショックにより住宅が簡単には売れなくなると、ハウスメーカー達の「商品住宅」のマーケティングでの差別化の競い合いは激化した。

次々に新しいスタイルの「新商品」を大衆にウケそうなキャッチフレーズをつけて販売することで、消費者の誘い合うようになった。

1980年代の大きな流れの一つとしては、1981年に制定された「新耐震基準」がある。技術革新により、構造的な質の向上を図ることで、安心して住める「住宅」が供給できるようになったのだ。

しかし設計技術の向上によって、「住宅」はコストアップした。つまりは以前よりも住宅を購入するのにお金が必要になった。それはハウスメーカーの「商品住宅」も同様である。

オイルショックに続き、コストアップした「住宅」はますます売れなくなってしまったのだった。

そうした不況の中、ハウスメーカーは「住宅」を売るために様々なアイデアを出し合った。構造形式のシステム化によるコストダウンの方法も模索はもちろんだが、夢の住宅として売り出した「庭付き一戸建て住まい」や家族間にもプライバシーが必要とした「2階建住宅」など、ハウスメーカーの技術力は、アイデアを実現するために向上していった。

競争こそがハウスメーカーを現在に至る大企業まで発展させていったのだ。

【不況から「住宅」を見つめ直す】

安藤忠雄氏は、「都市ゲリラ住宅」をいう記事で「住宅は個から作るしかない」としてメタボリズムのカプセル建築を批判した。

「住宅」でいえば、戦後の大量供給時代においてプロトタイプの作成までは建築家の仕事でもあったが、80年代になってマーケティングの「商品化」となると、建築家はハウスメーカーと決別するしかなかった。

「建築家の作る住宅とは何か」、「都市に対する住宅はどうあるべきか」等、80年代は「住宅」のあり方についてじっくり考えて作る時代でもあった。

不況は建築家に考える時間を与えてくれた時期でもある。

【家族崩壊から再び都市を考える】

そんな状況下の中で、建築家山本理顕氏は再び都市を考えようとしていた。

オイルショックの不況から、労働賃金の現象が生じると旦那の稼ぎだけでは足りず、女性も社会に出て働かないと暮らしていけないと考えられるようになった。

女性の社会進出は、当たり前のように考えられていた家族形態に変化を加え始めた。収入が少なくなり、更に共働きになると、「夫婦2人子供2人」という家族構成は、「夫婦2人子供1人」や「DINKS」と言われる夫婦のみ、ましてや未婚の男性、女性も増え始めた。

戦後の50年代に大家族から核家族が増えたことが、住宅供給に拍車をかけたわけであるが、80年代になると核家族の第一世代の子供は結婚し、家を出て行くようになる。子供がいなくなった住宅は夫婦のみの世帯が増え、「痩せるとズボンは履けなくなる」という言葉が生まれたように、「使いこなせないもの」となってしまった。

だからこそ、山本理顕氏は再び家族構成から見直し、当時の住宅の平面構成に対しても疑問を投げかけたのだ。

建築家は社会に対して、何ができるのか。

その疑問は「住宅」も再び「都市」へ繋がるべきだという思想に流れて行く。

90年代に入ると集合住宅における「都市」との繋がりは顕著に現れ始めるが、80年代の「都市」へ開かれた住宅においては、伊東豊雄氏の変化が最もわかりやすい。

70年代の「中野本町の家」で都市に対して閉じた「住宅」を発表した伊東豊雄氏は、80年代には「シルバーハット」を計画している。

鉄骨フレームとパンチングメタルによって、透明で開放的な住宅は、「中野本町の家」とは正反対のように感じたことであろう。

こうして建築家たちは、社会との関係性を見直して「都市」に開いた住宅という新しい流れを切り開いていった。

そしてその思想は、今なお継続している。



サポートによって頂いたものは書籍購入等、より良い記事を継続して書くために利用します。よろしくお願いします。