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【住宅と建築】02_1960年代の「小住宅」と「商品住宅」

1960年代に入ってからも、大量生産の波は止め処なく押し寄せて来た。その背景には経済大国とまで言われるようになった日本の国家政策が影響している。

【商品住宅の誕生】

1955年から71年にかけての日本における経済成長の発展期を「高度経済成長期」というわけであるが、当時の内閣総理大臣である池田寿人は「10年で国民の所得を2倍にする」というスローガンのもと輸出の拡大、技術革新や工業化の推進等の政策を行っていた。

それによって建築家の目は60年代に入ってからも、「小住宅」の工業化に向いていた。

60年代の「住宅」製品で最も大ヒットしたのは、プレハブ住宅の原点とも言われている大和ハウス工業の「ミゼットハウス」である。

戦後のベビーブームに生まれた自分の部屋が持てない子供達のために、6畳一間の小さな小屋はわずか3時間で建てられるという簡易性によって、子供部屋や茶室等の離れとして、瞬く間に大流行したのだった。

つまりこれが「ハウスメーカー」(商品住宅)の始まりである。

住宅がシステム化され、流通量が増えて来ると、ミゼットハウスは和風を取り入れた「春日」というネーミングのあるものや洋風にあしらったものなど、民衆にウケるようなカタログが出来始める。

ミゼットハウスという3時間で安価に製作出来るというスペックに対して、様々なトッピングをすることで購買意欲を唆るという販売手法は大人気となった。

【商品住宅と小住宅】

それに対して建築家である石山修武氏は、ミゼットハウスを「ショートケーキ住宅」と揶揄し、批判した。

60年代の「住宅」というものは、大量生産をするという同じ目的から始まっていた。しかし、ハウスメーカーが作る「商品住宅」と建築家が作る「小住宅」は明確に違うと言い放ったのだ。

その後大量生産をしなくても死ななくて済むという切迫した状況ではなくなると、工業化した小住宅を作るという建築家の歴史的使命は終わりを迎える。

小住宅設計ばんざい

その事象にいち早く反応した磯崎新氏は、「建築家になりたいのなら、住宅なんてやめて、再び公共性の高い建築を作ろう」と言った。

磯崎新が30歳にも満たない若者だった頃、伊藤ていじらと組んで、ペンネーム「八田利也(ハッタリヤ)」として発表した「小住宅設計ばんざい」という論文は、住宅に勤しむ建築家たちを批判し物議を醸し出した。

まだ日本で建築家という職業が認められていない状況下の中、一生懸命に「住宅」を作っているという危機的状況を感じていたのではないだろうか。

だからこそ磯崎新は「住宅は建築ではない」と言い切ったのだ。

1960年代と言うのは「住宅」をテーマにした建築家の思想が交錯した時代でもある。建築家篠原一男は「住宅は芸術だ」と言ったし、「住まいは広ければ広いほど良い」など、大量供給の時代に反発するように、住宅は新たな道に進み始める。

そして、大量供給の時代が終わった後の建築家が作った「住宅」にはある共通点がある。メタボリズムで建築家の関心が「都市」に向かう中、「住宅」だけは違ったのだ。

それが、「住宅を都市から切り離す」という考えだった。



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