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アメリカインディアンと僕たちの違い。あるいは加速主義について。

アメリカインディアンは面白半分でマンモスを皆殺しにして、満腹感をたっぷり味わった後に、ようやく後戻りできないほどに自然を破壊したことに気づき、自然の美しさに思いを馳せたらしい。そういう意味では、アメリカインディアンは加速主義者だった。

僕たちも同じだろうか。

アマゾンを丸裸にして、石油を掘り尽くして、太平洋をプラスチックで埋め尽くした後にしか、本気で自然を大切に使おうという気分にはならないのだろうか?

恐らくそうだ。パリ協定が「人類がサスティナビリティへの道のりを歩むための分水嶺」として1000年後の教科書(教科書なるものが存在すればの話だが)に登場しそうな気配はない。

『Horizon』というゲームでは、美しい自然の中にハイテクロボットが這い回る世界が描かれていたが、この世界も人類がESG投資を徹底した結果に訪れたのではない。あくまでポストアポカリプスの世界だった。僕たちの想像力は、破壊の未来しか描けない。

なんらかの形で人類はしばらく生きていくと思うけれど、分水嶺として描かれるのは、アメリカインディアンにとってのマンモス絶滅に代わるような、何らかの破滅であるように思える。

では、加速主義が言うように、安心して資本主義のアクセルを踏み続けるべきなのだろうか?

ここで僕としては、石油の消費量と幸福度が相関しないというシューマッハの指摘に注目したい。

僕たちの大量消費(と言うより大量廃棄)は、少年ジャンプやYouTube、ディズニーランドで満ち溢れた豊かな人生を歩むための必要な犠牲ではない(娯楽に関わる仕事なんて、ほんの一握りだ)。ブルシットジョブのためのパソコンを作るために死に物狂いで山を削りレアメタルを掘るような仕事によって、生態系は破壊されている。

アルコール中毒者が酒に溺れているのではなく、アルコールアレルギーの人が酒に溺れているような状況に近い。

仮に僕たちがアルコール中毒者ならば、酒で身を滅ぼすのは辛いものの、納得できないこともない。快楽に身を任せた先に破滅があるなら、まぁ仕方ない。ただし、アルコールが好きでもなく、アレルギーがあるにもかかわらず酒に溺れて、破滅するなら、こんなに辛い人生はない。今の僕たちはそういう状況にある。

もちろん、個別で見ればそこそこ楽しい人生もある。しかし、トータルで見たときに、僕たちの人生は楽しいことで埋め尽くされてはいない。

この点が僕たちと、アメリカインディアンの決定的な違いだ。彼らは狩を楽しみ、食事を楽しんだ。その先に一時の破滅があったのだ。それはそれでまぁ納得できるが、僕たちの暮らしの先に、僕の子孫が破滅を体験するのは納得できない。

だから僕は加速主義には与しない。加速主義に走るのならば、もっと快楽に溺れたいのだ。

幸い、僕たちがブルシットジョブを辞めて、市場の道徳を無視して、快楽に溺れれば、環境破壊には一定のブレーキがかかるはずだ。そのブレーキが十分かどうかはわからないが、それでも今よりはマシになるだろう。

脱成長とか、脱資本主義の話は、清貧思想として受け取られがちだ。しかし、実際はそうではない。資本主義の根本にはプロテスタンティズムの禁欲があり、それが極限まで捻くれたのが現状なのだ。マックスウェーバーは概ね正しかったと僕は思う。

ありがたいことに今はクソ安い飯も、無料の娯楽も無数にある。かつてのプロレタリアートと僕たちは違う。左翼界隈にはGoogleファックな風潮もあるが、あれこれと無料の娯楽を提供してくれることはやっぱり嬉しい。

あぁ。働くのをやめて、リラックス。これが一番だ。腹一杯飯を食ったり、だらだらとYouTubeを見たり、乳を見たり、たまに揉んだりしよう。

万国の労働者よ。リラックスせよ。
ボブ・ブラック『労働廃絶論』

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