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『五等分の花嫁』の映画を観て、生産性至上主義について考える

5つ子のうち、四葉が嫁だったわけだが、僕は漫画を読んでいたのでオチは知っていた(連載中に僕はマルチエンディング説を提唱していたのはナイショの話だ)。

映画で改めて観ると、僕は四葉の性格が病的に見えた。彼女は生産性至上主義に囚われているからだ。

四葉は「誰かの役に立たなければならない」というパラノイア的な妄執に囚われ、時たま無理をする。それで倒れ込み、入院するようなシーンもあった。

主人公から四葉が選ばれたときも「私なんて‥」という態度で拒否していた。拒否の理由は、生産性だった。私は他の姉妹のように役に立てないから、私は主人公の妻にふさわしくない‥というわけだ。

理由もなく、誰かに選ばれたり、一緒に過ごしたりすることに対して、彼女は恐怖感を持っている。この気持ちは、わからないでもない。

会社では生産性が命だ。役に立たなければ、居場所を失う。家庭ですら「働かない嫁はニート」的な風潮が幅を利かせている。子どもすら「将来の納税者」という扱いを受ける。これも生産性至上主義だ。

だが、将来納税しようがしまいが、僕は子どもを育てる。よその子どもだって可愛がる。子どもはそこにいるだけで、僕にとって価値がある。子どもと同じように、友達も、妻も、そうだ。別に何かの役に立つべきだなんて思わない。

そりゃあ、何かしてくれるなら嬉しい。でも、理由なくそこにいてくれたって別にいい。

誰しも、そういう存在がいるはずだ。四葉は自分がそういう対象に選ばれているということが理解できなかったのだ。

主人公がなぜ、四葉を選んだのかはよくわからない(そもそも僕は一夫一妻制にこだわる必要がないと思っていたが)。だが、別にそこに理由はなくていい。「因果関係はない」とデヴィット・ヒュームが言ったように、理由なんてない。好きなものは好きなんだよ。

存在の理由を捨てることは、勇気がいる。坂口安吾風にいえば、そこまで堕落できるほど人は強くない。やはり何らかの存在理由を見出したくなるのが人情だ。

それでも、四葉は行き過ぎているし、昨今の風潮も行き過ぎている。生産性もクソもない、ふざけた付き合いがもっと必要だ。友達と公園でだべっていた、小学生の頃のように。

四葉はどうやら人気がないらしい(僕も一花派だし)。それはきっとこういう生産性至上主義の人間が社会に溢れていて、いまいち魅力に欠けるからなのだろう。生産性がなくても厚かましく愛情を受け取れる人の方が、なんだかんだ愛されたりするんだね。

四葉はモテない。一花は可愛い。以上だ。

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